
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
元應の清暑堂の御遊に、玄上は失せにし頃、菊亭大臣、牧馬を弾じ給ひけるに、座に着きて、先づ柱をさぐられたりければ、一つ落ちにけり。御懐にそくひを持ち給ひたるにてつけられにけれど、神供の参るほどによくひて、ことゆゑなかりけり。
いかなる意趣かありけむ、物見ける衣かづきの寄りて、はなちてもとのやうにおきたりけるとぞ。
翻訳
元応年間に清暑堂にて執り行われた、後醍醐天皇即位式の余興でのこと、当時琵琶の名器「玄上」は盗難に遭って失われていたが、菊亭大臣がもう一挺の名器「牧馬」をお弾きになられた際、着座し、まず柱をお探りになられたところ、柱のひとつが外れて落ちた。懐中に続飯、飯粒を潰した糊をお持ちだったのでお着けになられたが、神供たちが参る頃にはすっかり乾いて、弾くになんの支障もなかったという。
何かしらの怨恨があったのだろうか、衣をすっぽりと被った見物客の女が側に寄り、柱を取り外して元のように置いたということだ。
註釈
○元應
元応年間(1319年~1321年)。
○御遊
ぎょゆう。大嘗会の後に催された催馬楽。
ただしここで取り上げられている後醍醐天皇の御遊は、実は文保二年(1318年)のことで、兼好法師の記憶違いと思われる。
○菊亭大臣
今出川兼季(かねすえ)。西園寺家の出身。太政大臣。琵琶の名手。後醍醐天皇の琵琶の師。
○「玄上」
読みは「げんしょう」。唐渡りの琵琶の名器。いっ時盗まれていた時期があった。
○「牧馬」
読みは「ぼくば」。「玄上」に同じく唐渡りの琵琶の名器。
○柱
読みは「じゅう」。琵琶の弦を抑える器具。
○そくひ
続飯(そくいひ)のこと。
淡々とした記述の裏に、底無し沼のようなどろりとした闇が張りついた、思わず胆を冷やす段です。
まず西園寺家が琵琶の家柄であり弁才天を祀っていること、そのために弁才天の嫉妬を怖れ表向き代々正妻を持たない慣わしだったこと(西園寺公望ももちろんそうです)を思い起こしてください。
この女、果たして何者だったのでしょうか。菊亭大臣兼季に遺恨のある女、それとも……。
目の前で女がかくも慮外千万な行為に及んだにもかかわらず、誰一人止めようとした気配はありません。
いかなる身分の女であろうと、大臣が弾く琵琶、しかも稀代の名器に悪戯をしたら、普通取り押さえられてしかるべきでしょう。
それが、あにはからんや誰も動かなかった。
動けなかったのだと思います。
兼季に万座で恥をかかせようと、弁才天が呪をかけたのです。
兼季は、諸事情により異父兄の娘、つまり姪を正妻としていました。
それともう一点。
この御遊が、後醍醐天皇の即位にまつわる行事であったことも要注目です。
後醍醐天皇ほど時代を掻き回し、毀誉褒貶にまみれた天皇もそういないでしょう。
その即位を寿いで催された催馬楽の席で、このような不埒な事件が出来した。
これはもう後後の後醍醐天皇のやりたい放題、その結果もたらされた混沌への序曲、つまり予兆と云っていいんじゃないでしょうか。
さらに深読みすれば、兼季があらかじめ続飯を携帯していたことも、いつそのような珍事が起こっても不思議でなかった時代と空気をびりびりと感じずにはいられません(琵琶を弾く人が周りにいませんので、弾き手がいざという時に備え、常に接着剤を持ち歩いているかどうかは定かではありませんが。ご存じの方がおられましたら御教示願います)。
それにしても兼季の冷静沈着ぶり、大物ですね。
音楽の大家は人格者であるという解釈も可能な段です。
ここまでの人物だったがゆえ、弁才天もついイケズな行為に走ってしまったのかもしれませんね。