【徒然草 現代語訳】第七段


神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからむ。世は定めなきこそいみじけれ。

命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふのゆふべをまち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。つくづくと一年をくらす程だにも、こよなうのどけしや。あかず惜しと思はば、千年をを過ぐすとも一夜の夢の心地こそせめ。すみはてぬ世に、みにくきすがたを待ちえて何かはせむ。命長ければ辱多し。長くとも、四十に足らぬ程にて死なむこそめやすかるべけれ。

その程過ぎぬれば、かたちをはづる心もなく、人に出でまじらはむ事を思ひ、夕の陽に子孫を愛してさかゆく末を見むまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみ深く、もののあはれもしらずなりゆくなむあさましき。

翻訳

あだし野の露にも似た人の命は儚いながらも絶えることがなく、一方で鳥部山の火葬の烟もまた消えることがないように、永遠にこの世に留まっておられるとしたら、しみじみとした情感などもよおすはずもない。明日をも知れぬ命だからこそ、情緒というものが生まれるのだ。

命持つものたちを見渡しても、人ほどの長い寿命を保つものはまずいない。カゲロウなどは夕刻を待つまでもなく死んでゆき、夏の蝉たちが春秋を知ることはない、そういう定めなのだ。それを思えば、たった一年とはいえのんびりと過ごすことを夢想しただけで豊かな気持ちになれるというもの。なのに、ああもっと長生きしたいまだまだ死にたくない、そんなふうに年がら年中欲張っていたら、たとえ千年生きても一夜の夢くらいにしか感じられないだろう。永久にながらえることなど出来るはずもないこの世で、ひたすら老残を曝し続けてなんになろうか。長く生きれば生きるほどかく恥は多くなる。せいぜいが四十手前でおさらばするのが程好くていいと思う。

そこを越すと、容貌の衰えに対する廉恥心をなくし、出しゃばりになり社交のことばかり考え、老醜を省みず子供や孫たちを溺愛し、挙げ句の果てにはあの子たちの立身出世を見届けるまでは死ねないなどとたわけた妄執の虜となり、現世欲の塊となって、物事への情趣もへったくれもなくなる、なんともはや呆れるばかりである。

註釈

鳥部山には当時火葬場がありました。鳥辺山と表記されているテキストもありますが、長年親しんできた角川文庫版今泉忠義訳に従い、鳥部山としています。


私が「徒然草」に惚れ込むきっかけになった段です。いつ読んでも痺れますね。
この段は、三島由紀夫にも多大な影響を及ぼしています。
私が見た目の美しさに過剰なまでにこだわり、容貌の美醜に対しるハードルが人の何十倍も高くなったのは、ずばり「徒然草」の、この段のせいです。
悪しからずご了承ください。


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