
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
萬のことは、月見るにこそ慰むものなれ。ある人の、月ばかり面白きものはあらじといひしに、またひとり、露こそあはれなれと争ひしこそをかしけれ。折にふれば、何かはあはれならざらむ。
月花はさらなり、風のみこそ人に心はつくめれ。岩にくだけてきよくながるる水のけしきこそ、時をもわかずめでたけれ。?湘日夜東に流れ去る、愁人の為にとどまること少時もせずといへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。?康も、山沢に遊びて、魚鳥を見れば心たのしぶといへり。人遠く、水草きよき所に、さまよひありきたるばかり、心慰む事はあらじ。
翻訳
何かにつけ、月を眺めてさえいれば心は自然と慰められる。ある人が、月ほど情緒あるものはない、と云いったのに、別の人が、いや露には及ぶまい、と抗弁して争ったのも微笑ましい。その場にさえ相応しければ、何であろうとあわれをもよおすものだ。
月や花は云うまでもないが、中でも風は抜きん出て人の心を潤わす。岩に砕けつつ流れゆく水の情景も、いつ何時見ても晴れ晴れとする。?水も湘水も昼夜問わずひたすら東に流れ去り、都を恋うる私のためにいっ時たりとも留まってはくれない、と詠んだ詩を拝見したことがあったが、あれには心打たれたものだ。?康も、山の沢で戯れ、魚や鳥を眺めているだけで愉快な気分になる、と云った。人里を離れ、水や草のきれいな辺りをそぞろ歩くくらい、憂さを忘れさせてくれることはない。
註釈
○?康
けいこう。竹林の七賢人の一人。
どうもしっくりこない自然描写を、今度は支那の詩人や七賢人を持ち出してきて手堅くまとめようとしています。
「枕草子」もどきよりはマシですが、かと云ってどうということもない凡段ですね。
一体に兼好の文章は、ヨイショに向いてないんですよね。褒め下手なんですよ。
例えば「枕草子」の中宮定子への無条件の賞賛、ああいう無邪気さがそもそも欠如していたんだと思います。
この段で見逃してはならないのが、「~といへる詩を見侍りし」の「侍り」。
見せてくれた目上の者(おそらくは主家の堀川家の誰かか、歌道の師匠二条為世)への敬意はもちろん、詩の作者(唐の詩人戴叔倫)に対する並々ならぬ尊敬の念が見てとれます。昔の詩人歌人に甘く、当代歌人たちには手厳しい兼好の偏屈な一面がうかがえます。