
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り事去り、楽しび悲しびゆきかひて、花やかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬすみかは人あらたまりぬ。桃李ものいはねば、誰とともにか昔を語らむ。まして、見ぬ古へのやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。
京極殿、法成寺など見るこそ、志とどまり事変じにけるさまはあはれなれ。御堂殿の作りみがかせ給ひて、庄園多く寄せられ、我が御族のみ、御門の御うしろみ、世のかためにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせはてむとはおぼしてむや。大門、金堂など近くまでありしかど、正和の比、南門は焼けぬ、金堂は、その後倒れ伏したるままにて、とりたつるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、そのかたとて残りたる。丈六の佛九體、いとたふとくて並びおはします。行成大納言の額、兼行が書ける扉、あざやかに見ゆるぞあはれなる。法華堂なども、いまだ侍るめり。これもまたいつまでかあらむ。かばかりの名残だになき所々は、おのづから礎ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。
されば、よろづに見ざらん世までを思ひおきてむこそ、はかなかるべけれ。
翻訳
歌にも詠まれた、絶えず氾濫を繰り返し淵と瀬が変わり続けるあの飛鳥川のように、常の姿を留めない世であるから、時は移ろい様々な出来事が過ぎ去り、楽しみと悲しみが交錯した果てに、かつて栄耀栄華を誇った辺りも人気のない野原となり、仮に家は変わらなくても住人はすっかり変わってしまう。そこに変わらず咲いている桃や李が口のきけるはずもなく、一体誰と昔語りをしたらよいものか。ましてやお目にかかったこともないかつての尊い方が住まわれていたという屋敷跡など、甚だ儚いものだ。
京極殿、法成寺などを見れば、建てた人の志が留まったまま建物の有り様はすっかり変わってしまっていて、胸打たれるものがある。道長殿がたいそう立派にお建てになりまばゆいばかりに磨きたて、荘園も数多く寄進され、自身のご一族だけが永久にお上の後見役である摂政関白に昇れるよう取り計らいお決めになられた時に、いかに世が移ろうとも、こうまで荒れ果てようとは夢想だになさらなかっただろう。大門や金堂はさすがに近年まで残っていたけれど、正和の頃に南門は焼けてしまい、金堂は倒壊したままとなっており、再建されるすべもない。法成寺の阿弥陀堂無量寿院だけが、在りし日を偲ぶよすがとなっている。ここには一丈六尺の仏像が、尊く並んでおわします。行成大納言の書いた額や、兼行の書いた扉の文字が今も鮮やかに見えるのはさすがの趣である。そうそう、法華堂なども未だ健在であった。さりとてこれもいつまで保つことやら。この程度の名残すらとどめない所所には、まれに礎のみが残るばかりだが、それが元はなにかを知る者ももはやいない。
そんなわけだから、自分の死後の世のことまで万事ぬかりなく取り計らっておこうなどという魂胆は、虚しいの一言に尽きる。
註釈
○京極殿
藤原道長の邸宅。
○法成寺
ほうじょうじ。道長建立の寺。
○御族
読みは「おおんぞく」。
○正和
1312年~16年。
○丈六
一丈六尺。約4.85メートル。仏の背丈は丈六であると信じられていたことから、仏像のサイズはその等倍(二分の一、もしくは五倍または十倍)を基準とする。
○行成大納言
藤原行成(ゆきなり/こうぜい)。小野道風、藤原佐理と並んで三磧の一人に数えられる能書家。
風景は、道長の時代から約三百年後。
鎌倉時代末期のリアルをまざまざと見せつけられる思いがしますね。ギアを上げた感があります。
月並みレベルだった自然描写とはうってかわって、対象が人工物だけに、迫真の記述、筆が乗っています。
オチのコメントにも、妙な実感がこもっており、拳拳服膺したい一段です。