
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
そのの別當入道は、さうなき庖丁者なり。ある人のもとにて、いみじき鯉を出だしたりければ、皆人、別當入道の庖丁を見ばやと思へども、たやすくうち出でむもいかがとためらひけるを、別當入道さる人にて、この程百日の鯉を切り侍るを、今日かき侍るべきにあらず。まげて申し請けむとて切られける、いみじくつきづきしく、興ありて人ども思へりけると、ある人、北山太政入道殿に語り申されたりければ、かやうのこと、おのれはよにうるさく覺ゆるなり。切りぬべき人なくは、たべ、切らむといひたらむは、なほよかりなむ。何でふ、百日の鯉を切らむぞと宣ひたりし、をかしく覺えしと人の語り給ひける、いとをかし。
大方、ふるまひて興あるよりも、興なくてやすらかなるが、まさりたることなり。まれ人の饗應なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも、誠によけれども、ただそのこととなくてとり出でたる、いとよし。人に物をとらせたるも、ついでなくて、これを奉らむといひたる、まことの志なり。惜しむよしして乞はれむと思ひ、勝負の負けわざにことづけなどしたる、むつかし。
翻訳
園の別当入道こと藤原基氏卿は、海内無双の料理人である。ある方のお宅でそれはそれは見事な鯉が出されたことがあり、その場にいた者たちは皆、ぜひとも別当入道の庖丁さばきを見たいものよと思ったが、気軽にお願いするのも気が引けて躊躇っていると、別当入道は察しのいい方で、「このところ百日続けて鯉を料っておりまして、今日に限ってやらないわけにはまいりません。むしろこちらからお願いしてさばかせていただきましょう」と仰って庖丁をお使いになったのは、まさに当意即妙、なんと機転の利いた振る舞いよと人々は感心しきりであった。この逸話をさる方が北山太政入道こと西園寺兼実殿に申し上げたところ、「その手の話はどうも私には胡散臭く思われてならない。料れる方はおられませんか?ならこの私が切らせていただきましょうと素直に云えばさらにいいものを。なんでわざわざ百日鯉を切り続てけているなんて云う必要があろうか」と仰られたのを、これまた感じ入ったとさる方が語ってくださったのは、まったく愉快であった。
大体において、その場の空気を読んで受ける振る舞いをするより、外連味こそないがすっきり自然な方が勝っているのはままあること。お客を迎える際、演出趣向を凝らし時時に応じて設えるのも実にいいものだが、殊更の気取りなく差し出されるのも決して悪いものではない。人に何かを贈る折にも、何事かにかこつけず、これよかったらあげますよとさらっと云うのが心のこもったやり方ではないだろうか。勿体つけて相手が欲しがるように仕向けたり、勝負事の負けに乗じて与えようとするのは、ちょっと鬱陶しいし嫌味ったらしい。
註釈
○そのの別当入道
藤原基氏。園家の祖。
○北山太政入道
西園寺兼実。
貴族社会は様式美そのものですが、そのパラダイムの中でいかに機転を利かすかが才覚として重んじられました。和歌の変遷がそれを如実に物語っています。