
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
最明寺入道、鶴岡の社参の次に、足利左馬入道の許へ、先づ使を遣はして、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一獻にうちあわび、二獻にえび、三獻にかいもちひにてやみぬ。その座には亭主夫婦、隆弁僧正、あるじ方の人にて坐せられけり。さて、年毎に給はる足利の染物、心もとなく候と申されければ、用意しさぶらふとて、色々の染物三十、前にて女房どもに小袖に調ぜさせて、後につかはされけり。
その時見たる人の、近くまで侍りしが語り侍りしなり。
翻訳
最明寺入道こと北条時頼殿が、鶴岡八幡宮へお参りしたついでに、足利左馬入道こと義氏殿の許にまず使者をお立てになってからお立ち寄りになった際、義氏殿が設けられた御献立は、一膳目が打鮑、二膳目が海老、三膳目の蕎麦がきで打ち止めであった。その座には、義氏夫妻、隆弁僧正が、主側として座っておられた。「時に毎年頂戴しております足利の染物、あれが待ち遠しゅうございます」と申されたところ、「すでにご用意いたしております」と色とりどりの染物を三十疋を持って来られ、時頼殿の目の前で侍女たちに小袖に仕立てさせ、お帰りになられた後にお届けになった。
その場に居合わせ一部始終を見た人が、つい最近まで生きておられたが、その方が語られたお話です。
註釈
○最明寺入道
さいみょうじのにゅうどう。北条時頼。
○次に
読みは「ついでに」。
○足利左馬入道
あしかがさまのにゅうどう。足利義氏。三代執権北条泰時の娘を娶っていた。
○隆弁僧正
りゅうべんそうじょう。石清水八幡宮の別当。
前段に続き、北条時頼がらみのちょっといい話。
この話の約80年ほど後に、時頼の子孫北条高時が、同じく義氏の子孫足利尊氏によって滅ぼされていることを鑑みれば、転た寂寞と申しますか、感慨深いものがありますね。
追記
鎌倉時代の食事情はこのようなものだったそうです。