
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
しのぶの浦の蜑の見るめも所せく、くらぶの山ももる人しげからむに、わりなく通はむ心の色こそ、淺からずあはれと思ふふしぶしの、忘れがたきことも多からめ、親はらからゆるして、ひたぶるにむかへすゑたらむ、いとまばゆかりぬべし。
世にありわぶる女の、にげなき老法師、あやしのあづまびとなりとも、にぎははしきにつきて、さそふ水あらばなどいふを、なか人、何方も心にくきさまにいひなして、知られず知らぬ人をむかへもて来たらむあいなさよ。何事をか打ちいづる言の葉にせむ。年月のつらさをも、分けこし葉山のなどもあひかたらはむこそ、つきせぬ言のはにてもあらめ。
すべて、餘所の人の取りまかなひたらむ、うたて心づきなきこと多かるべし。よき女ならむにつけても、品くだり、見にくく、年も長けなむ男は、かくあやしき身のために、あたら身をいたづらになさむやはと、人も心おとりせられ、わが身は、向ひゐたらむも、影はづかしく覺えなむ、いとこそあいなからめ。
梅の花かうばしき夜の朧月にたたずみ、みかきが原の露分け出でむ在明の空も、我が身ざまにしのばるべくもなからむ人は、ただ色このまざらむにはしかじ。
翻訳
忍び逢うにも人目の煩わしさがあり、暗闇にまぎれての逢瀬にもしょっちゅう邪魔が入る、そんな仲の女の許に通いつめる恋路においてこそ、身悶えするほどの切なさを痛感する折々には、忘れがたいこともさぞ多いだろう、方や親兄弟公認の上で、堂々と家に迎え妻の座に据えたりしたら、それはそれで気詰まりで味気ないんじゃなかろうか。
暮らし向きが楽ではない女が、不釣り合いな年寄り坊主や情緒を解さない東国人のお大尽にもらってもらおうとして「こんな私にお誘いがあるのでしたら……」とこぼしたりすれば、仲人は双方にあることないことを云い連ねて云いくるめ、誰も知らず知られもしない男をひょっこり連れて来たりする、ああいうのはまったく味もそっけもない。そんな風に一緒になったところで実のある会話なんぞ交わされようはずもない。長い年月の間にこうむった試練の辛さも、分け入った葉山を踏み越えてようやく添い合うことが出来ましたねなどと語り合う仲であってこそ、言葉は尽きないというものだろう。
そもそも他人の取り持つ仲なんてものは、気兼ねすることが多く落ち着かないものだ。たとえいい女であったとしても、いやむしろならなおのこと、さえない身分の、不細工で年喰った男は、こんなどうしようもない自分のためにあたらその身を無駄にすることもなかろうにとつい女を見下してしまい、自身、女と向き合えばあたかも己の醜い姿を見せつけられているようで恥じ入ってしまう、こうなってしまってはもう手の施しようがない。
梅の香が漂う朧月夜に女の家の前で佇んだり、宮中の夜露を踏み分け女官の部屋からそっと出てきたところで見上げる有明の月、こういった情景が我が身の記憶と共鳴し合わない人は、色恋の道にははなから足を踏み入れないに限る。
註釈
○蜑
あま。海女のこと。