【徒然草 現代語訳】第五十二段


神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

仁和寺にある法師、年よるまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとりかちよりまうでけり。極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、年頃思ひつること、はたし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけむ。ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ずとぞいひける。
少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。

翻訳

仁和寺のさるお坊さんが、年をとるまで石清水八幡宮への参詣を果たしていなかったので、心残りだと、ある時一念発起して一人で歩いてお参りをした。八幡宮の真宮寺である極楽寺、同じく摂社の高良社などを拝し、ここまでと思い込んで帰ってきた。その後、同僚と顔を合わせた際、長年の宿願を果たしてまいりました。いやはや聞きしにまさる尊さでございました。それはそれとして、参拝者たちがこぞって山に登ってっていたのは、何かあったんですかねぇ。知りたくもあったのですが、やはり神様にお参りすることが本来の目的、そう心に決めておりましたゆえ、山には登りませんでした、と云ったとか。
ほんのちょっとしたことにも、導き人にはいてもらいたいものである。

註釈

○仁和寺
真言宗御室派の本山。代々法親王が住職を務めた。


おそらく「徒然草」で最もよく知られた段でしょう。

読んで文の如しで、額面通りに受け取っていいかとは思いますが、長年「徒然草」に慣れ親しんできた者としては、末尾の「少しのこと」に着目したいところです。
石清水八幡宮への参詣を、「少しのこと」と云っているんですね。神様にお参りすることを些細なことだというわけです。
これ、考えたらずいぶん大胆な言い種じゃないでしょうか。
神様と仏さまのどっちが偉いか、そりゃもう神様に決まっておるわけで、僧籍にあろうとなかろうと神様にお参りするなんてことは基本のき、爺さんになるまでその程度の基本が出来ていない輩が、いくら仏の道を極めようとしても所詮はこんなもんだ、と。
クスリ、チクリどころか、寸鉄人を刺す気合いですよ。

深読みですけどね。
ただ、当時の坊さんにはけっこうこの手合いが多かったんじゃないでしょうか。

追記

私、昔からこの段どうも笑えないんですよねぇ。たぶん自分もどこかで似たよーなことやらかしてるんだらうな、という自覚があるからなんでしょうね。


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