【徒然草 現代語訳】第五十八段


神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

道心あらば、住む所にしもよらじ。家にあり、人にまじはるとも、後世を願はむにかたかるべきかはといふは、さらに後世知らぬ人なり。げには、この世をはかなみ、必ず生死を出でむと思はむに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家をかへりみるいとなみのいさましからむ。心は縁にひかれて移るものなれば、閑ならでは道は行じがたし。

そのうつはもの、昔の人に及ばず、山林に入りても、餓をたすけ、嵐を防ぐよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから世を貪るに似たることも、たよりにふれば、などかなからん。さればとて、そむけるかひなし。さばかりならば、なじかはすてしなどいはむは、無下のことなり。

さすがに一度道に入りて、世を厭はむ人、たとひ望ありとも、勢ある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾、麻の衣、一鉢のまうけ、あかざのあつ物、いくばくか人の費をなさむ。求むる所はやすく、その心はやく足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいへど、悪にはうとく、善には近づくことのみぞ多き。

人と生まれたらむしるしには、いかにもして世をのがれむことこそ、あらまほしけれ。ひとへに貪ることをつとめて、菩提に赴かざらむは、萬の畜類にかはる所あるまじや。

翻訳

仏道を修めようとする心ばえさえあれば、何処に住まおうと関係ない。家にいたり、人と付き合っていても、来世の往生を願うになんの不都合があろうか、とか口にするのは来世について無知な者の言い草だ。実際のところ、現世の空しさを悟り、本気で必ずや解脱せんと心に期するなら、何が楽しくて、朝夕宮仕えし、家計のやりくりに腐心したりするだろうか。心というものは縁次第で移り変わる、だからこそ物静かな環境に身を置かない限り修行はおぼつかない。

今人の器量は、とうてい古人のそれに及ぶべくもないのだから、たとえ山に分け入っても、餓えを凌ぎ、嵐を避ける工夫がなくてはとても生き延びられない、ゆえに現世への執着と見えるかのような出来事が、事と次第で起こらないはずがない。とは云うものの、これじゃあ出家した甲斐がない、なんでまた世を捨てたりしたのかなどとぼやくようでは話にならない。

なんと云おうと、ひと度仏の道を志し俗世を嫌って離れた者なら、たとえ邪な心が芽生えても、世間の業突く張りどもの貪欲さから見れば可愛いものだ。紙の寝具や麻の衣類、ひと鉢の食べ物、藜の汁、これっぽっちはいくらにもなりはしない。求めれば容易く手に入るし、すぐに気持ちは満たされる。己の僧形に恥じる心があるから、悪からは自然と遠ざかり、善に近づくことが多くなる。

人として生まれてきた証には、いかなる手段をこうじても俗世間を逃れるに越したことはない、それこそがあるべき姿だ。貪ることにのみ邁進し、悟達の境地に至ろうとしないのは、犬畜生と大差ない。

註釈

○生死
読みは「しょうじ」。


本領発揮の段です。
何度読み返したかわかりません。

追記

ささ皆さん、出家しましょ♪


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