【徒然草 現代語訳】第八十段


神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

人ごとに、我が身にうときことをのみぞ好める。法師は兵の道を立て、夷は弓ひくすべ知らず、仏法知りたる気色し、連歌し、管弦をたしなみあへり。されど、おろかなるおのれが道よりは、なほ人に思ひ侮られぬべし。

法師のみにもあらず、上達部、殿上人、上ざままでおしなべて、武をこのむ人多かり。百たび戦ひて百たび勝つとも、いまだ武勇の名を定めがたし。その故は、運に乗じてあたをくだく時、勇者にあらずといふ人なし。兵つき、矢きはまりて、つひに敵に降らず、死をやすくして後、始めて名をあらはすべき道なり。生けらむほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く禽獣に近きふるまひ、その家にあらずは、好みて益なきことなり。

翻訳

猫も杓子も、自分に縁遠いことばかり好む傾向がある。坊主なのに武芸を極めようとし、一方で武士のくせに弓の引き方すら知らず、さも仏法に通じているかのような顔をして、連歌に勤しんだり、管弦を嗜んだりしている。しかしそんなことをしていれば、本来精進すべき道を疎かにするより、遥かに人に見くびられてしまうものを。

坊さんだけじぁない、上達部、殿上人といった上流の方々までもが、こぞって武芸に熱を入れている。百度戦って百度勝とうとも、武勇の人と定まるわけではない。何故か?たまたま運あって敵を粉砕しようという時、勇者にならない者はいない。兵を失い、弓矢も尽きんとし、それでも最期まで降伏を肯んぜず、潔く死を撰んで後に初めて武勇の誉が冠される、武の道とはそういうものだからだ。生あるうちは、むやみやたらに武芸を誇るものではない。そもそも武というものは、人倫に悖る云うなれば禽獣まがいの営みなのだ、武門に生まれついたのでもない限り、血道をあげたところで無益である。

註釈

○気色
読みは「きそく」。

○武勇
読みは「ぶよう」。

○勇者
読みは「ようしゃ」。


後鳥羽院批判でしょうか。それとも時代的に後醍醐天皇への諫言でしょうか。どちらにせよ苛烈を極めています。
後鳥羽院や後醍醐天皇が武を好んだがゆえに、お取り巻きたちが追随したというのは明白ですね。
ゴルフ好きの専務や取引先の社長に気に入られようとゴルフに精出すサラリーマン(令和の時代にもいるそうですよ)の悲哀と滑稽に通じ、トホホな気持ちになります。


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