【徒然草 現代語訳】第十九段


神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

折節の移りかはるこそ、ものごとにあはれなれ。
もののあはれは秋こそまされと人ごとにいふめれど、それもさるものにて、今一きは心もうきたつものは、春の気色にこそあめれ。鳥の聲なども、ことの外に春めきて、のどやかなる日影に墻根の草萌えいづるころより、やや春ふかく霞みわたりて、花もやうやうけしきだつ程こそあれ、折しも雨風うちつづきて、心あわたたしく散り過ぎぬ。青葉になり行くまで、よろづにただ心をのみぞなやます。花橘は名にこそおへれ、なほ梅のにほひにぞ、古へのことも立ちかへり、戀しう思ひいでらるる。山吹のきよげに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて思ひてがたきこと多し。

灌仏会の頃、祭の頃、若葉の梢涼しげに茂りゆく程こそ、世のあはれも、人の戀しさもまされと人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月、あやめふく頃、早苗とるころ、水鶏のたたくなど、心細からぬかは。六月の頃、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるもあはれなり。六月祓またをかし。

七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒になる程、雁鳴きて來るころ、萩の下葉色づくほど、わさ田刈り干すなど、とりあつめたる事は秋のみぞ多かる。また、野分のあしたこそをかしけれ。いひつづくれば、みな源氏物語、枕草子などにことふりにたれど、同じこと、また今更にいはじとにもあらず。おぼしきこといはぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ、あぢきなきすさびにて、かつやりすつべき物なれば、人の見るべきにもあらず。

さて、冬枯のけしきこそ、秋にはをさをさ劣まじけれ。汀の草に紅葉の散りとどまりて、霜いと白うおけるあした、やり水より烟の立つこそをかしけれ。年の暮れはてて、人ごとに急ぎあへる頃ぞ、またなくあはれなる。すさまじきものにして見る人もなき月の、寒けくすめる廿日あまりのそらこそ、心細きものなれ。御仏名、荷前の使たつなどぞ、あはれにやんごとなき。公事どもしげく、春のいそぎにとりかさねて催し行はるさまぞいみじきや。追儺より四方拝につづくこそおもしろけれ。つごもりの夜、いたう暗きに、松どもともして、夜半過ぐるまで人の門たたき走りありきて、何事にかあらむ、ことごとしくののしりて、足をそらにまどふが、曉がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年のなごりも心細けれ。なき人の來る夜とて、魂祭るわざは、この頃都にはなきを、あずまの方には、なほすることにてありしこそあはれなりしか。

かくて明けゆく空の気色、昨日にかはりたりとは見えねど、ひきかへめづらしき心地ぞする。大路のさま、松立てわたして、はなやかに嬉しげなるこそ、またあはれなれ。

翻訳

季節の移り変わる折節こそ、何かにつけ心が動かされる。
味わいの深さなら秋にしくものはないと、皆声を揃えて云うけれど、それはそれでごもっともとは思うが、心がひときわ浮き立つとくれば、春の気色ではなかろうか。鳥の啼き声もとりわけ春めき、長閑な陽射しに包まれて、垣根の草が芽吹き出す頃から、次第次第に春も深まり辺り一面に霞が渡って、花も咲きかけんとする矢先、折悪しく雨風が続き、あっけないくらいあれよあれよと散ってしまう。かくの如く、桜は葉桜の時季までことあるごとに我々の心を悩まし続ける。橘の花は、昔を思い起こすよすがとされているが、なんといっても梅の花、かつてのことを生々しく呼び起こさせるあの芳香には敵うまい。山吹の花が清らか咲いた姿、藤の花房がたよりなげに垂れている様子、あらゆることが春はないがしろに出来ない。

四月の灌仏会、同じく四月の葵祭の頃に、若葉の梢が涼やかに繁ってゆく季節こそ、この世の儚さも人恋しさもいやまさるよ、と何方かが仰ったのは、深く深く頷いてしまう。五月の軒に菖蒲を葺く端午の節句、田植えの時期に、水鶏がけたたましく鳴く声を聞けば、誰しも心許なくなる。六月になり、みすぼらしい家に夕顔がぼんやり白く見え、蚊遣火がゆらゆらめいているのも、いやおうなしに源氏物語を想起させ、じんとくる。六月晦日の夏越しの大祓も情緒が漂う。

七夕祭りがまた優雅な風習だ。深まる秋に夜が日一日と寒さを募らせてゆく中、雁が渡ってくる頃、萩の下葉が色付くあたりに早稲田の稲を刈り穫って干してある景色等々、乱れ打ちのごとく秋にはあらゆるものが押し寄せ集中する。野分の吹き荒れた翌朝がまたいい。と、こんなふうに逐一挙げていても、どれもこれも源氏物語や枕草子で云い尽くされていることばかりだが、同じことは書かないと心に決めたわけでもなし。思いを口に出さないと腹は脹れるばかり。筆まかせに書き連ねているだけなのだから、所詮は慰みの手すさびに過ぎない、すぐに破り棄ててもいっこうに構わぬものばかりゆえ、人に見られる読まれることはもとより念頭にない。

そこでまたひとつ付け足すと、冬の情景が捨てがたいのである。汀の草に散った紅葉が混じり、すっかり霜が降りた朝、遣り水から煙が立っているのはなんとも云えない。年もおしつまり、老いも若きも忙しく立ち廻っている、それを見ていると心に迫るものがある。見る価値なしと打ち捨てられている冬の月が、寒々しい二十日過ぎの夜空に浮かんでいる姿くらい覚束なくなるものがあろうか。御仏名の法会が執り行われ、荷前の使いが立つなども、ついしんみりと敬虔な気持ちになる。とかく宮中行事が目白押しの冬に、正月の準備が同時進行している場景は、いつ見ても感嘆の念を禁じえない。大晦日の鬼やらいから元旦の四方拝への一連の流れがまた素晴らしいのだ。大晦日の漆黒の夜に松明を明々と灯し、深夜まで人家の門をひたすらたたくためにあちこち走り歩いて大ぎょうにわめくだけわめいては、足の地につくいとまもあらばこそと走り廻っている祝言屋さえも、夜明け間近になるとぶつぶつ云うだけでおとなしくしているのは、年がくれてゆく象徴にも思え、つい心細くなってしまう。故人が還ってくる宵に彼等の魂を祀る行事は、このところ都あたりでは行われないようだが、東国ではしめやかに執り行われていると聞いて、感興をもよおしたものだ。

かくして元旦の朝が明けてゆく世界は、特段昨日と変わったようには見えないけれど、不思議なことにまるで一新したかのように思えてしまう。都大路には松が整然と立ち並び、華やかで晴れやかな空気が漂っているのは、まことに心が洗われる。

註釈

○水鶏
クイナ。


「枕草子」の向こうを張った段ですね。
試験に一部が取り上げられることもあるので、触れたことのある方もいらっしゃるでしょう。
あじきなきすさびとか嘯きながら、いろいろスタイルを模索していたんでしょうね。


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