【徒然草 現代語訳】第十四段


神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

和歌こそなほをかしきものなれ。あやしのしづ山がつのしわざも、いひ出でつればおもしろく、恐ろしき猪のししも、ふす猪の床といへばやさしくなりぬ。

この比の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、ことばの外にあはれにけしき覚ゆるはなし。貫之が、いとによるものならなくに、といへるは、古今集の中の歌くずとかやいつたへたれど、今の世の人のよみぬべきことがらとは見えず。その世の歌には、姿ことば、このたぐひのみ多し。この歌に限りてかくいひたてられたるも、知りがたし。源氏物語には、ものとはなしに、とぞかける。新古今には、残る松さへ峰にさびしき、といへるうたをぞいふなるは、まことに、少しくだけたる姿にもや見ゆらん。されどこの歌も、衆議判の時、よろしきよし沙汰ありて、後にも殊更に感じ仰せ下されけるよし、家長が日記には書けり。

歌の道のみいにしへにかはらぬなどいふこともあれど、いさや、今もよみあへる同じ詞、歌枕も、昔の人のよめるは、さらに同じものにあらず、やすくすなほにして、姿もきよげに、あはれもふかく見ゆ。

梁塵秘抄の郢曲のこ0とばこそ、またあはれなることは多かめれ。昔の人は、ただいかにいひすてたることぐさも、皆いみじく聞ゆるにや。

翻訳

なんのかんのと云っても、和歌はやっぱり面白い。賤しい山の民のなりわいも、歌に詠まれた途端きらめきを放ち、恐るべき猪さえも、臥猪の床、などと云えば雅になる。

昨今の歌は、おっと思う一節はあっても、古歌のように、どういうものか、言外の景色をしみじみと味わえるようなものはない。貫之が、糸によったものなら細いのも頷けるが、そうでもないのに別れはなぜこんなにも心細いのだろう、と詠んだのを、古今集の屑歌とか云い伝えられているけれど、なかなかどうして今時の歌人の詠めるような調べではない。当時の歌は、姿、言葉ともに、この類いの歌ばかりである。にもかかわらず、この歌だけを槍玉にあげるのは、どうも納得がいかない。源氏物語にも、ものとはなしに、と貫之の歌を一部云い替えて引用しているではないか。ひょっとしたら、この云い替えが低調作の烙印の要因かもしれないが。新古今では、残る松まで峰にさびしき、と詠んだ歌を駄作としているようだけど、これなぞ少々くだけた調子に聞こえてしまうのだろうか。とは云うものの、この歌、衆議判の際には、悪くないとの判定が下され、事後も後鳥羽院のおぼえがいたくめでたかったと源家長の日記にしるされている。

歌の道だけは、今も昔も変わることがないという一面はあるにせよ、やはりそこは一考を要する、今の世の歌に詠まれた言葉、歌枕も、とうてい同じものとも思えず、昔の歌言葉は、すらりと美しく、味わいの深さは比すべくもない。

梁塵秘抄に見える当時の流行り歌の言葉も、これがまたなんとも味のあるものばかり。いにしえの歌人たちの歌は、さらっと云い捨てたように詠んだものでも、どういうわけか心に響いてしまうものかしらん。

註釈

○残る松さえ峰にさびしきの歌
冬の来て山もあらはに木の葉ふり残る松さえ峰にさびしき
祝部成茂(ほふりべのなりしげ。鎌倉時代初期の歌人)の歌

この歌が後鳥羽院に褒められたと日記に書いている源家長の妻は、何を隠そう作者祝部成茂の妹で、後鳥羽院のお気に入りの女流歌人の一人後鳥羽院下野です。要するに成茂は家長の義兄なんですよ。ですので、身内贔屓の側面もあり、確かに後鳥羽院は歌に関して妥協を赦さない方でしたが、ネタとして話半分といったところ。この辺りの、当時の歌壇のパワーバランスを、兼好が知っていて書いたかどうかは判別しがたいものがありますが、「侍る」が遣われていないので、多分知らなかったんじゃないでしょうか。

○衆議判(しゅぎはん)
歌合わせの優劣を、撰ばれた判者によらず左右の合議の上で下すこと。



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