
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
五月五日、賀茂の競馬を見侍りしに、車の前に雑人立ちへだてて見えざりしかば、各おりて、埒のきはに寄りたれど、ことに人多くたちこみて、分け入りぬべきやうもなし。かかる折に、むかひなる樗の木に、法師の登りて、木のまたについゐて物見るあり。とりつきながら、いたう睡りて、落ちぬべき時に目をさますこと度々なり。これを見る人、あざけりあさみて、世のしれものかな。かくあやうふき枝の上にて、やすき心ありてねぶるらむよといふに、我が心にふと思ひしままに、我等が生死の到来、ただ今にもやあらむ。それを忘れて、物見て日をくらす、おろかなる事は、なほまさりたるものをといひたれば、前なる人ども、誠にさにこそ候ひけれ。最もおろかに候といひて、みなうしろを見かへりて、ここへ入らせ給へとて、所をさりて、呼び入れ侍りにき。
かほどのことわり、誰かは思寄らざらむなれども、折からの思ひかけぬ心地して、胸にあたりけるにや。人木石にあらねば、時にとり物に感ずる事なきにあらず。
翻訳
五月五日、上賀茂神社の競馬を見物しに行きました折、牛車の前に下下の者共が犇めきあって視界を遮ってしまっていたので、各々車から降り、馬場の柵のわきまで近付いたものの、その辺はなお一層混みあっていて、とうてい分け入ってゆけそうになかった。かような状況下で、向かいに植わっている樗の木によじ登り、木の股にひょいと腰掛けて見物している法師がいた。木に取りつきながらも眠りこけ、何度となくあわや落ちようかという時にだけ目を覚ましている。それを見ていた人が、嘲り蔑み、世にも稀なる痴れ者だな。あんな危ないとこで安心しきって眠っちゃってるよと云ったので、ふと心に浮かんだ言葉をそのままに、我々の死がやってくるのだって、まさに今ここでかもしれない。そんなことすら忘れて日がな一日競馬見物して暮らしている。愚かさ加減はあの男より遥かに上じゃなかろうかね、と口にしたところ、前にいた人たちは口々に、まったくもっておっしゃる通りでございます、私たちこそ最たる愚か者でした、そう云って後ろの私を振り返り、どうぞどうぞこちらへお入りくださいと隙間を空け私を呼び入れてくれたのであった。
このくらいの道理は、誰であれ思い付く程度のものだが、場が場だけにいささか虚を衝かれた思いがし、心を打ったのだろうか。人は木や石ではないのだ、時によれば感銘を受けるということもないわけではない。
註釈
○競馬
くらべうま。
○樗
おうち。栴檀の古名。
○人木石にあらねば
「白氏文集」より。
白居易「李夫人」
翠蛾髣髴平生貌 不似昭陽寢疾時 魂之不來君心苦 魂之來兮君亦悲
背燈隔帳不得語 安用暫來還見違 傷心不獨漢武帝 自古至今皆如斯
君不見穆王三日哭 重璧臺前傷盛姫 又不見泰陵一掬涙 馬嵬坡下念楊妃
縱令妍姿?質化爲土 此恨長在無銷期
生亦惑 死亦惑 尤物惑人忘不得
人非木石
皆有情 不如不遇傾城色
この詩における木石の扱いは、どんな人間でもたとえ天子であっても情愛というものを持ち合わせていて、絶世の美女にはクラッとくる、だから美人なんてものには巡り逢わないに越したことはない、といったところです。
「枕草子」まがいの自慢段。
いっそ清少納言みたくあけっぴろげに自慢すればいいものを、一抹の屈託があるのが兼好法師の可愛げといったところでしょうか。
この段を、バカ共を意のままにするのって、意外に簡単なんだぜ、と読んだのは二十歳の私です。