
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
或る人清水へ参りけるに、老いたる尼の行きつれたりけるが、道すがらくさめくさめといひもて行きければ、尼御前、何事をかくは宣ふぞと問ひけれども、いらへもせず、なほいひやまざりけるを、たびたび問はれて、うち腹立ちて、やや、鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養ひ君の、比叡山に児にておはしますが、ただ今もや鼻ひ給はむと思へば、かく申すぞかしといひけり。有り難き志なりけむかし。
翻訳
ある人が清水寺にお参りした折、年老いた尼と行き合い連れだっていた道々、「くさめくさめ」とぶつぶつ云いながら歩いているので、「尼さんよ、さっきから何を仰ってるんです?」と訊いてみたが返事はなく、依然として呟くのを止めないので、しつこく問うているうちに、尼がとうとう怒りだし、「貴方、何もご存じないのね!くしゃみをしたらこのおまじないを唱えないと死んでしまうと云われているから、私が乳母としてお仕えした若君、今は比叡山で稚児となられている方ですけどね、そのお方がまさにこの時くしゃみをなさっておいでじゃないかと思うと気が気でないので、こうしてずっと唱えているんでございます!」まことにもって見上げた志じゃありませんか、ねぇ。
註釈
○くさめ
「休息萬命、急々如律令」の早口言葉のようなもの。
○比叡山
読みは「ひえのやま」。
一般に美談として捉えられている段ですが、それはそれでいいんですけど、個人的には末尾の「なりけむかし」の「かし」がずーっと気になっています。
「なりけむ」でいいのにわざわざ強調の終助詞「かし」を付け加えたあたりに、兼好法師独特の軽い茶化しがあるんじゃないかなー。
そもそもなんで今ここで若君がくしゃみしてることが乳母に判ってしまうんですか?
それこそ情愛の深さのなせるわざと云えばそれまでですけど、くしゃみするってことは肌寒いってことですよね、立派な御家にお生まれになり贅沢な産着を着せられていたあの若君も、質素な僧衣だけを身にまとい稚児として日夜修行されさぞやお寒い思いをなさっておいでにちがいない、そう取るのがまぁ順当かもしれませんし、尼さんは事実そう信じていたんでしょうが、末尾の「かし」、私は肌寒いのはぶっちゃけ脱がされてた(尻が剥き出しになっていた)と解釈したいです。なんたってお寺ですから稚児ですから、ねぇ。
その辺り、気になるむきの方は、司馬遼太郎「義経」の冒頭をご一読ください。
追記
こーゆー解釈を高校の古文で教えたら、懲戒免職もんかもしれませんね。