【徒然草 現代語訳】第四十九段


神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

老来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。古き墳、多くは是れ少年の人なり。はからざるに病をうけて、忽ちにこの世を去らむとする時にこそ、はじめて過ぎぬるかたのあやまれることは知らるなれ。あやまりといふは、他のことにあらず、速にすべき事をゆるくし、ゆるくすべきことを急ぎて、過ぎにしことのくやしきなり。その時悔ゆともかひあらむや。

人はただ無常の身に迫りぬることを、心にひしとかけて、つかのまも忘るまじきなり。さらば、などかこの世のにごりもうすく、仏道を勤むる心もまめやかならざらむ。

昔ありける聖は、人来りて自他の要事をいふ時、答へて云はく、今、火急の事ありて、既に朝夕に迫れりとて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生を遂げけりと、禅林の十因に侍り。心戒といひける聖は、あまりにこの世のかりそめなることを思ひて、しづかについゐけることだになく、常はうずくまりてのみぞありける。

翻訳

老いてから仏道にいそしもうなどと悠長にかまえて、時を待っていてはならない。古い墓は、年若くして亡くなった者のが大半なのだ。思いもよらず病を得て、忽ちのうちにこの世を去ろうという段になって初めて、人は過去の過ちを思い知る。過ちとは他でもない、即座に行動に移さねばならないことを先延ばしにし、時間をかけてやるべきものを急き立てられたように片付けてしまった、そんな過ぎにし日々の過ちである。その時になって悔いても、後の祭なのだ。

人はただ常に死と隣り合わせであることだけを強く意識し、片時たりとも忘れてはならない。そういう心構えでいさえすれば、汚濁にまみれることなどあろうはずもなく、仏の道に精進する精神も細やかでいられるというもの。

昔、こんな高僧がいたらしい、人の訪いを受け互いの要件を云う際に、こう答えたという、たった今この時、私には火急の用があり、すでに目前にまで差し迫ってきている、そうして耳を塞ぎ念仏を唱えはじめ、そのうち往生を遂げたと禅林寺の永觀の書き残した「往生十因」にある。また心戒とかいう聖は、この世のあまりの儚さを思うがゆえに、じっくり座っているということがなく、いつもうずくまっていたという。

註釈

○禅林の十因
禅林寺の僧永觀の書き記した「往生十因」。

○心戒
平宗盛の養子宗親。高野山の僧侶。


前半部が教科書にも参考書にもよく取り上げられる段です。
高校生にこの段の旨味を理解しろという方が酷じゃないでしょうか。いや、存外今の高校生だったら、頷いたりする子は多いのかな。今の世の中、大人たちが無茶苦茶にしてしまいましたからね。
希望を持て!って、なんて無責任で恥知らずな言葉でしょう。経済成長だけをお題目よろしく唱えるしか能がないくせに。

希望なんて要らない。持ちようがないもの。
夢なんて見なくていいと思います。
波立たない澄んだ水面のような心があれば。


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