
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
あやしの竹の編戸のうちより、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、つややかなる狩衣に、濃き指貫、いとゆゑづきたるさまにて、ささやかなる童ひとりを具して、遥かなる田の中の細道を、稲葉の露にそぼちつつ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かむ方知らまほしくて、見おくりつつ行けば、笛を吹きやみて、山のきはに惣門のあるうちに入りぬ。榻に立てたる車の見ゆるも、都よりは目とまる心地して、下人に問へば、しかじかの宮のおはします頃にて、御仏事などさうらふにやといふ。
御堂のかたに法師ども参りたり。夜寒の風にさそはれくるそらだきもののにほひも、身にしむ心地す。寝殿より御堂の廊にかよふ女房の追風よういなど、人めなき山里ともいはず、心づかひしたり。心のままに茂れる秋の野らは、おきあまる露にうづもれて、蟲のねかごとがましく、遣水の音のどやかなり。都の空よりは雲の往来もはやき心地して、月のはれくることさだめがたし。
翻訳
みすぼらしい竹網戸の内から、いたく年若い男が、月明かりのせいで色合いこそはっきりとしないものの、艶やかな狩衣に、濃い紫の指貫を穿き、いかにも由緒ありげないでたちで、幼い小姓一人だけを伴い、遥か先まで続いている田んぼの細道を、稲葉の露にしっとり濡れながら分けいってゆく間、笛をなんとも巧みに吹き興じている、妙なる音色よとよさを聴き分けられるほどの者も辺りにはおるまいに、そう思うにつけ、若者の行き先が知りたくて、見送るふりをしつつそっと後をつけてゆけば、やがて笛が止み、山際の惣門のある邸宅に入っていった。牛車が榻に立ててあるのを見ても、所が所だけに都よりずっと目立ってしまうだろうに、ついそう感じて召使に訊いてみたところ、某宮様のお越しになられる時刻でございます、仏事などおつとめになられておられるのでは、という返答であった。
そう云えば、御堂には僧侶たちが集まってきている。薄ら寒い夜風にあおられて漂ってくる薫りも、沁み入る心地よさ。寝殿より御堂へと往き交う女房たちが、立ち去ったあとの薫りにまで心を砕いているのは、人目のない山里にしては周到な配慮というものだ。あるがままに生い茂った秋の野原には、ありあまる露に埋もれ、蟲の鳴き声も切々と響き、遣り水の音ものどかで浮世離れしている。雲の流れ動きも都で見上げるより速やかに思われ、月も形が定めがたいほど刻一刻と晴れたり曇ったりを繰り返している。
註釈
○濃き
この時代の濃いは、紫色が濃いこと。
○榻
しぢ。牛車の先の二本の轅(ながえ)を留めておく台のことで、轅と轅を繋いでいる部位が軛(くびき)。
○かごとがまし
文句たらたら。
訳しにくかったですね。
文章が板についていないんです。どうもぎこちない。
以前から感じているんですが、心に浮かぶよしなしごとを書きついでゆくのに飽きて、ちょいとフィクションでもものしてみようかと酔狂をおこしたんじゃないでしょうか。
前段でBLまがいのものを書いて、興がのったのかもしれません。
そう読めば、物語特有の思わせ振りなプロローグ、いづれの御時にか云々に近い書きようのような気もします。
大体にして主人公の素性をぼやかしているのがまず怪しい。
兼好法師の性格でしょう、「徒然草」にはたとえやんごとない身分の方であっても、たいてい名前がはっきり書かれていますから、うやむやにしているのは、ネタ的にヤバくあまりに恐れ多いか、兼好法師的に都合が悪いかですが、この段はそのどちらにも当てはまりません。
フィクションを書こうとしたはいいけれど、貴公子の造形も類型で、背景、自然描写もいつものごとくありきたり。
なにがしかの法要というのは、ちょいといわくありげでそそられもしますが、着想が膨らまなかったんでしょうね。ストーカーの視点というのも、悪くないものの、書いててちと恥ずかしいというか情けなくなっちゃったのかもしれません。そういう思いを抱いた時点で、物語創作者としては失格ですね。
読む度にそんな感想が過る段です。