
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
貝をおほふ人の、我が前なるをばおきて、よそを見わたして、人の袖のかげ、膝の下まで目をくばるまに、前なるをば人におほはれぬ。よくおほふ人は、餘所までわりなく取るとは見えずして、近きばかりおほふやうなれど、多くおほふなり。碁盤のすみに、石を立ててはじくに、むかひなる石をまぼりてはじくは當らず。我が手もとをよく見て、ここなるひじりめをすぐにはじけば、立てたる石必ず當る。
萬の事、外にむきて求むべからず。ただここもとを正しくすべし。清獻公がことばに、「好事を行じて前提を問ふことなかれ」といへり。世をたもたむ道も、かくや侍らむ。内をつつしまず、軽くほしきままにしてみだりなれば、遠國必ずそむく時、はじめてはかりごとをもとむ。風にあたり、隰にふして、病を神靈にうたふるはおろかなる人なりと醫書にいへるが如し。目の前なる人の愁をやめ、惠みをほどこし、道を正しくせば、その化遠く流れむことを知らざるなり。禹のゆきて三苗を征せしも、師を班して、徳を敷くにはしかざりき。
翻訳
貝合わせの遊戯の場で、目前の貝をうっちゃっておいて余所見ばかりし、対する人の袖の陰や膝の下にいたるまでじろじろと見ているうちに、気が付けば自分の貝を人に覆われてしまっていたりする。方や遊戯巧者は、遠いところの貝を無理して取ろうという素振りは見せずに、手近の貝ばかりを狙っているように見えるが、蓋を開けてみれば多くの貝を手中に収めている。碁盤の角に碁石を置いて当てる遊戯でも、遠くばかりを狙ったところで当たるはずもない。手元に意識を集中させ、間近の碁盤の筋を真っ直ぐ弾けば、向かいの立てられた石にあやまたず当たるものだ。
何事においても、外部に求め期待するのはご法度。ただ自らの手元足許をきちんとすればいいのだ。清献公も云っている、「今この時よい行いをするだけでよい。将来どうなるかなど考えてはならぬ」と。為政の道も、こうでなくてはならんのじゃありませんか?内政をないがしろにし、軽い気持ちでやりたい放題していれば、決まって遠国に叛乱が起き、慌てて対抗策を講じるなど対応に苦慮する羽目になる。冷たい風に当たり、じめじめした所で寝起きしておきながら、病の平癒を神に祈る人を愚か者と呼ぶ、と医学書に書かれている通りである。最も身近な人の憂いを取り除き、恩寵を授け、正しい道を歩んでいれば、その徳が遥か彼方にまで及んでゆくのをご存じないのである。禹が軍勢を率いて三苗を征伐しようと出陣した際、やにわにとって返し、国政をかえりみて善政を敷いたところ、あれほど手強かった禹がやすやすと軍門に下ったという故事があるではないか。
註釈
○ひじりめ
聖目。碁盤上の九つの点。
○清獻公
せいけんこう。宋の政治家趙抃(ちょうべん)の謚(いみな)。
○禹
う。伝説の王朝夏の初代皇帝。
○三苗
さんびょう。湖北省、湖南省、江西省にいた異民族苗族。