【徒然草 現代語訳】第百九十四段


神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

達人の人を見る眼は、少しもあやまる所あるべからず。

たとへば、或る人の、世に虚言をかまへ出して人をはかることあらむに、すなほにまことと思ひて、いふままにはからるる人あり。あまりに深く信をおこして、なほわづらはしく虚言を心得そふる人あり。また何としも思はで、心をつけぬ人あり。またいささかおぼつかなく覺えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じゐたる人あり。またまことしくは覺えねども、人のいふことなれば、さもあらむとてやみぬる人もあり。またさまざまに推し、心得たるよしして、かしこげにうちうなづき、ほほゑみてゐたれど、つやつや知らぬ人あり。又、すゐし出して、あはれさるめりと思ひながら、なほあやまりもこそあれと、あやしむ人あり。またことなるやうもなかりけりと、手を打ちて笑ふ人あり。また心得たれども、知れりともいはず、おぼつかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人とおなじやうにて過ぐる人あり。またこの虚言の本意をはじめより心得て、少しもあざむかず、かまへ出したる人とおなじ心になりて、力をあはする人あり。

愚者の中の戯れだに、知りたる人の前にては、このさまざまのえたる所、詞にても顔にても、かくれなく知られぬべし。まして、あきらかならむ人の、まどへる我等を見むこと、掌の上の物を見むが如し。但しかやうの推しはかりにて、佛法までをなずらへいふべきにはあらず。

翻訳

極意を会得した人が人を見る目には、わずかの誤謬もない。

例えば誰かがガセネタを思い付き、それを世間に広め周りをたぶらかそうと企んだ時、その嘘を丸ごと信じまんまと騙されてしまう人がいる。また、あまりに深く信じこむあまり、そのネタにあれこれと尾ひれを附けて話を大きくしてしまう人がいる。また、聞かされてもなんとも思わず、柳に風と受け流す人もいる。また、若干不審がり、信じようか信じまいかの狭間で揺れる人がいる。また、ほぼ信じてはいないのだけれど、人の云うことだからそういうこともあるかもなと、そのまま捨て置いてしまう人がいる。また、あらゆる角度から推量考察し、解ったふうな顔でうんうんと頷きつつにっこり笑っているものの、実のところはなにひとつ解っちゃいない人がいる。また、様々に推察を巡らし、おそらくこういうことであろうと見当をつけながらも、はやりどこかしらに綻びがあるに違いないと、依然として疑ってかかっている人がいる。また、取り立てて珍しいネタでもないと、手を叩いて笑っている人がいる。また、真贋は見抜いていながらも、それについては明言を避け周りにも気取られないようにし、不確かでないことに関してはなるべく触れないようにして、知らないも同然を装っている人がいる。また、この虚言の真意を当初より重々承知の上で、云い出した者を嘲笑うでもなく、むしろ同調してネタの拡散に力を貸す人がいる。

かくの如く、愚者たちの間で繰り返されるたわごとでさえ、真相を見極めている人の前では、十人十色の反応が、言葉の端々ちょっとした表情からも余すところなく窺い知れてしまうのだろう。まして、そういう哲人の目には、我々のような蒙昧な迷える子羊の姿は、掌の上の物を見るかのようにはっきりと見えてしまうに違いない。ただひとつ注意しておかねばならないのは、こういう類いの推察推量を、仏の教えにまで敷衍させるのはご法度ということである。

註釈

○虚言
読みは「そらごと」。

○本意
読みは「ほい」。


今、まさに今現在を生きる人全員に読んでいただきたい段です。


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