【徒然草 現代語訳】第百二十九段


神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

顔回は、志、人に労を施さじとなり。すべて人を苦しめ、物をしへたぐる事、賤しき民の志をも奪ふべからず。また、いとけなき子をすかし、おどし、いひはづかしめて興ずることあり。おとなしき人は、まことならねば、事にもあらずと思へど、をさなき心には、身にしみて恐ろしく、はづかしく、あさましき思ひ、誠に切なるべし。是をなやまして興ずる事、慈悲の心にあらず。

おとなしき人の、喜び、怒り、悲び、楽ぶも皆、虚妄なれども、誰か實有の相に著せざる。身をやぶるよりも、心をいたましむるは、人をそこなふことなほ甚だし。病をうくることも、多くは心よりうく。外より来る病はすくなし。薬をのみて汗を求むるには、しるしなきことあれども、一旦恥ぢ恐るることあれば、必ず汗をながすは、心のしわざなりといふことを知るべし。遥雲額を書きて、白頭の人となりしためしなきにあらず。

翻訳

顔回は、生きてゆく上で人に苦労をかけないことを信条としていた。すべからく人を苦しめ、物を痛めつけること、相手がたとえ下賤な者であってもその志をへし折るようなことはなすべからず、というわけだ。たまに大人が、幼児を謀ったり脅迫したりさんざんにからかっては大笑いするようなことがある。ものなれた大人なら、はなから冗談と解っているので気にも留めないが、いとけない心には真に迫って恐ろしく、恥じ入り、呆然としてしまうことおびただしく、甚だやるせない。無垢な心を弄びいじめて興がるのは、断じて慈悲の心ではない。

大人が感じる喜怒哀楽も、即ち空、所詮はかりそめのものと解っていながら、誰しもがつい実在の物事として受け止めてしまう。肉体を傷つけるより心を痛める方が、遥かに人そのものを損なわせる。病の元をたどれば、往々にして心に行き着く。実際、外から病を得ることはそう多くない。薬を服用し発汗を促しても一向に汗をかかないことはままあるが、一方で猛烈に恥じ入ったりすると決まって滝汗をかく、これぞ心の作用と心得えておくべきだ。遥雲観の額を書いた韋誕が、一瞬にして白髪となった例を思い起こすがいい。

註釈

○顔回
がんかい。孔子の高弟で、十哲の一人。32歳で早逝。

○遥雲額云々
魏の能書家韋誕が、遥雲観の額を書くにあたり、25丈(約75メートル)の高さに吊り上げられた際に、恐怖のあまり書き終え地上に降ろされるやたちまちにして白髪になったという(出典「世説新語」)。


♪からだの傷ならなおせるけれどぉ~、心のいたではいやせはしない(「時の過ぎゆくままに」)。

追記

兼好がフランス革命の後に生まれていたら、マリー・アントワネットの話も持ち出していたでしょうね。


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