【徒然草 現代語訳】第百八十八段


神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

或者、子を法師になして、學学問して因果の理をも知り、説教などして世わたるたづきともせよといひければ、教へのままに説教師にならむために、先づ馬に乗りならひけり。輿車は持たぬ身の、導師に請ぜられむ
時、馬など迎へにおこせたらむに、ももじりにて落ちなむは、心うかるべしと思ひけり。次に、佛事ののち酒などすすむることあらむに、法師の無下に能なきは檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやうさかひに入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説教習ふべき隙なくて、年寄りにけり。

この法師のみにもあらず、世間の人、なべてこのことあり。若き程は、諸事につけて、身を立て、大きなる道をも成じ、能をもつき、學問をもせむと、行末久しくあらます事ども心にはかけながら、世を長閑に思ひてうちおこたりつつ、まづさしあたりたる目の前のことにのみまぎれて月日を送れば、ことごとなすことなくして身は老いぬ。終に物の上手にもならず、思ひしやうに身をも持たず、悔ゆれども取りかへさるる齢ならねば、走りて坂をくだる輪のごとくに衰へゆく。

されば、一生のうち、むねとあらまほしからむことの中に、いづれかまさるとよく思ひくらべて、第一の事を案じ定めて、その外は思ひすてて、一事をはげむべし。一日の中、一時の中にも、あまたのことの來らむなかに、少しも益のまさらむことをいとなみて、その外をばうちすてて、大事をいそぐべきなり。何方をもすてじと心にとりもちては、一事もなるべからず。

たとへば碁をうつ人、一手もいたづらにせず、人にさきだちて、小を捨て大につくが如し。それにとりて、三つの石をすてて、十の石につくことはやすし。十を捨てて、十一に付くことはかたし。一つなりともまさらむかたへこそつくべきを、十までなりぬれば、をしく覺えて、多くまさらぬ石にはかへにくし。これをも捨てず、かれをも取らむと思ふ心に、かれをもえず、これをも失ふべき道なり。

京にすむ人、いそぎて東山に用ありて、既に行きつきたりとも、西山に行きてその益まさるべきことを思ひえたらば、門より帰りて、西山へ行くべきなり。ここまで來つきぬれば、このことをば先づいひてむ。日をささぬことなれば、西山のことは、帰りてまたこそ思ひ立ためと思ふ故に、一時の懈怠、すなはち一生の懈怠となる。これを恐るべし。

一事を必ず成さむと思はば、他の事の破るるをもいたむべからず。人の嘲りをも恥づべからず。萬事にかへずしては、一の大事成るべからず。人のあまたありける中にて、あるもの、ますほのすすき、まそほのすすきなどいふことあり。わたのべの聖、この事を傳へ知りたりと語りけるを、登蓮法師、その座に侍りけるが聞きて、雨の降りけるに、蓑かさやある、かし給へ。彼の薄のことならひに、わたのべの聖のがり尋ねまからむといひけるを、あまりにも物さわがし。雨やみてこそと人のいひければ、無下の事をも仰せらるるものかな。人の命は雨のはれまをも待つものかは。我も死に、ひじりも失せなば、尋ね聞きてむやとて、走り出でて行きつつ、習ひ侍りにけりと申し傳へたるこそ、ゆゆしくありがたう覺ゆれ。敏きときは則ち功あり
とぞ、論語といふ文にも侍るなる。この薄をいぶかしく思ひけるやうに、一大事因縁をぞ思ふべかりける。

翻訳

ある人が、息子を僧侶にしようと、「学問をして因果の道理を知り、説教などをしてたつきの道としなさい」と云ったので、息子はそれに従い説教師になろうとしてまず馬術を習った。輿や車が持てない身分で、導師としてお呼ばれされた折に、馬を寄越された際、巧く乗りこなせず落馬するようなことがあっては遺憾だと考えたからだ。次いで、法事の席で酒をすすめられたりすることがあれば、導師として芸のひとつもなくては施主もさぞ白けるだとうと早歌なるものも習った。このふたつがようようものになってきたため、更なる上達を目指して邁進しているうちに、肝心要の説教を習得する時間が取れず、気が付けば老いてしまっていた。

話はなにもこの坊主に限ったことではない。世間ではこれと似たようなことがまま起こる。若い時分には、何につけ立身出世を夢見、偉大な事業を成し遂げ、同時に芸能を身につけ、学問も修めるべく、何十年も先までの己のありようを思い描き、心掛けだけは殊勝ながら、まだまだ先は長いとのほほんと日々を送り、とりあえず目先の俗事にかまけて過ごしているうちに、何一つものにならないままただ馬齢を重ね爺さんになってしまう。結局一芸に秀でることもなく、立身出世なぞ夢のまた夢、悔やんでみたところで後の祭で、取り返しがつくはずもなく下り坂を転がる車のように老衰へ一直線と相成る。

とまぁこんなワケだから、短い一生のうちにあれもしたいこれにもなりたいと思い願う事の中から、とりわけこれだけは譲れないというものを比較検討して撰び、それ以外は思い切って投げ捨て、ただひとつその事だけに注力せねばならない。一日一刻のうちにも、次から次へと押し寄せてくる世俗の雑事の中から、わずかでも益になりそうなことだけを取捨選択して、他の一切合切は放擲し、一大事に専念せねばならない。どれもこれもと欲張って執着しているようでは、ひとつの事すら成就はおぼつかない。

碁に喩えてみればよく解る。碁を打つ者は、一手も無駄にせぬよう、相手に先んじて利の薄い石は捨て、利の厚い石を取ろうとする、それと同じだ。碁では、三つの石を捨てて十の石を手に入れるのはいたって容易い。一方で、十を捨て十一を得ることのなんたる難しさよ。勝負なのだから、たとえ一つでも有利な方を取らねばならぬのに、捨てるのが十にまでなってしまうと、つい判断が鈍り惜しい気持ちが勝って、一見しては多く勝っているとは思えない石は取りにくいもの。この石は捨てられない、でもあの石は取りたいというような浅はかな思慮では、詰まるところ肝心の石は取れず、この石をも失ってしまうのは、火を見るより明らかであろう。

京の住人が、東山に所用があり、すでにその場に到着していたとしても、西山に行けば更に利のあることが判明したなら、すぐさま訪問先の門よりとって返して西山へ行くべきである。せっかくここまで来たのだから、この事はまず云っておきたい、とか西山の案件は予定外なのだから、いったん帰宅してまた日を改めよう、こういう一時の気の弛みが、引いては一生の怠けとなるのである。この態度姿勢こそ戒めねばならない。

仮にも一事を成そうと志したなら、たとえ他の事が滞り失敗に終わったとしても、それを嘆いてはならない。人から嘲笑されようとも恥じることもない。あらゆる犠牲と引き換えにしてしか、重大事業は成し遂げられないものなのだ。大勢が集った席で、ある者が、「ますほの薄、またはまそほの薄というものがあります。渡辺の上人さまがそのことを伝え聞いておられるそうですよ」と話していたのを、たまたまその場に居合わせた登蓮法師が耳にし、表が非道いどしゃ降りだったにもかかわらず、「何方か簑と傘をお持ちではござらぬか。お持ちならぜひお貸しいただきたい。件の薄についてうかがいに渡辺の上人のところへ参ろう」と云ったので、誰かが「なんという気忙しさ。せめて雨がやんでからになさい」と止めたのに対し、「あなたこそ、とんでもないことを仰る。人の命は雨の晴れ間を待ってくれるとでもお思いですか。この場で自分が死に、その間に渡辺の上人がお亡くなりになられたら、誰に薄のことをお訊ねすればいいのでしょう!」と云い放って駆け出してゆき、無事習い覚えることが出来たと漏れ聞いておりますが、この行動力は実に天晴れ、稀に見る立派なものと云える。即行動に移せば必ずや成功を手に入れることが出来ると、論語にもあるそうだ。登蓮法師のひそみにならい、人生の一大事である悟達への機縁に想いを馳せるべきであろう。

註釈



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です