
とある霧深い朝、非道く急き立てられ、源氏の君が眠り足りないお顔で嘆息なさいながらお帰りになられようとなさっておられた際、女房の中将が、御格子を一間ばかり開けて、お見送りなさいませと御几帳をずらしましたので、女人は頭だけをもたげて見送られます。前栽には今を盛りに色とりどりの花々が咲き誇ってります、それをお名残惜しそうに眺め佇んでおられるお姿は、この世のものとも思えぬ美しさです。
そのうち廊へと進まれましたので、中将がご案内差し上げます。紫苑色の季節に合ったものを着て、薄物の裳をきりりと結わえた腰つきが、なよやかでなまめかしいのです。源氏の君はふと振り返られ、寝殿の隅にしばし引き据えられました。
咲いている花に心移りするのは憚られるけれど、手折ることもしないで立ち去るのは気が引けてしまう今朝の朝顔よ
どうしようかね、と気やすくに手を取られましたら、女房も馴れたもの、すぐさま
朝霧が晴れてゆくのもお待ちにならず去られるご様子、花のような貴方に心を奪われていると見ました
そう女主人に成り代わって申し上げます。
可愛らしい少年の、すっかりお洒落にめかしこんでいるのが、指貫の裾が露を被るのも厭わず花畑に踏み込んで朝顔を手折っている姿などは、絵に描きたくなってしまうほどです。
こと源氏の君に対しましては、大体において単にお顔を拝見しただけの者であっても、心に鮮烈な印象を焼き付けない者はおりません。無粋な山の民であっても、花の陰には憩うてみたいと思うもの。後光の射すようなご尊顔を拝した者なら一人残らず、その身分に応じ、手塩にかけた愛しい娘をぜひ側仕えに差し出したいと願い、あるいはそこそこだと自負している姉妹を持つ者なら、たとえ婢であってもお側近くで使っていただきたいと切望せぬ者はおりません。ましてや、ちょっとした機会にさりげなく仰られたお言葉に触れた人で、心得と嗜みがある者なら、疎かに聞き流してしまうようなことは絶対にいたしません。昼夜を分かたずおいでになられるほど六条の女人に心を許す素振りをお見せにならない源氏の君に、女房の中将は気を揉んでいるようなのです。
それはそれといたしまして、例の惟光がお引き受けした覗き見の件ですが、しばらくしてかなり詳細を探り出しご報告申し上げました。「依然として主の特定は出来ておりません。よほど慎重に人目を忍んで暮らしているようですが、日々の徒然に南側の半蔀の長屋に移られることがあり、車の音がしたと思うと、若い女房たちが外を窺っている中に、主とおぼしき女人がやって来て混じることもあるようです。顔はさほどはっきりと見えたわけではございませんが、かなりの美形と見受けられました。そんなある日のこと、先祓いしながら通る車がございまして、それを見つけた女童が慌てて『右近の君様っ!まずはご覧になられませ、今まさに中将殿がお通りになられるところですよ!』」とご報告いたしますと、内から格上の女房が現れ、『何を騒いでいるの』とたしなめつつ、『よく分かったわね、どれ、見てみましょう』と覗きに来ました。長屋へは打橋のような板が渡してありまして、そこを通らねばなりません。急いでいたためか、どうやら裾をどこかに引っ掛けてしまったようでした、『葛城の神様もずいぶん雑にお作りになったものね』と苛立って、覗き見する気が一気に失せてしまったようでした。中将の君は御直衣をお召しになられておりまして、御随身もお連れでいらっしゃいました。あの方は誰それ、あちらの方は誰それと女童がいちいち数えるようにしておりまして、それぞれの名前が頭中将の随身、小舎人童の名前と一致いたしましたので、それと知れたわけでございます。」等々とお伝えいたしましたら、源氏の君は「しかとこの目でその車を確かめたかったな」と仰いまして、もしやあの雨夜に聞いたいつまでも忘れられない不憫な女人かも知れん、とはたと思い当たられ、もっと詳しく知りたがっておられるご様子ですので、惟光は自分の恋路もまずまず順調であるらしく、「家中を隈なく知り尽くしたのでございますが、中にはさも私たちであるかのように見せかけて喋る若い女房もおりますので、惚れたふりをしてこっそり出入りしておりました。巧く化けたとうぬぼれて、小さな子供がいる女が云い間違いをしたりいたしますのも、上手に丸め込みながら、同時に決まった相手がいないかのように装い強引に取り繕ったりいたしておるのでございます。」そんなことまで話しては笑っております。源氏の君は「尼君をお見舞いがてら、ぜひ垣間見させてもらおうか」と仰いました。
仮の宿であるにせよ、住んでいる家の程度を思えば、あれこそ馬頭が分類分けして見下した下の品に相違あるまい、ああいうところに思わぬ拾い物があったりしたら……、とまたぞろ酔狂を起こされるのでした。
惟光は、たとえごく些末な事柄であっても源氏の君のご意向に背かぬよう努めております、その上本人がまた根っからの好き者ですから、あれこれと策を弄して奔走し、力ずくで源氏の君がお通いになられる手筈を整えたのでした。この辺りのいきさつにつきましてはくどくなってしまいますので、例によって割愛させてください。
女について何処の誰とも詮索なさらず、御自身もお名乗りにならず、必要以上にお姿を窶され、あろうことか御車もお使いにならず立って歩かれますので、さしもの惟光も生半可なお気持ちではあるまいと悟り、自分用の馬をお譲り申し上げ、本人は走ってお供します。「名うての女たらしが、こんな無様な足元を見られた日には面目丸潰れでございます。」と渋ることしきりですが、源氏の君は何方にもお知らせにならず、あの日夕顔の件で遣いに出した随身一人をお連れになり、他は顔の割れていない童だけという用心深さでございます。万が一にも足がついては大事と、惟光の実家にお休みにお立ち寄りにもなられません。一方女の側も、あまりに不審でどうにも納得がゆきませんから、御遣いが来れば尾行させ、明け方の帰り道を追わせて御自宅を突き止めようとするのですが、いつの間にやら煙に巻いてしまわれます、そうなさりながらも、さすがに居ても立ってもいられぬほど愛しく、その人の面影がいっ時も心を離れませんから、危険過ぎる、軽率の極みだとは重々ご承知の上で、甚だ頻々とお通いになられておられるのです。
恋の路にいったん迷い込んだら日頃生真面目な人でも常軌を逸することがあります、これまで源氏の君は表向きはとみに冷静に、人に咎め立てされるような御振る舞いは慎んでこられましたが、この度はどうしたことか、朝にお別れしたばかりなのに昼にはもう夜が待ちきれないと思うほど悶々とされ、あまりのもの狂おしさにそこまで想い詰めるほどの女でもなかとうにとなんとかご自分を鎮めようとなさいますが、なにぶん相手の女人が驚くばかりにほのぼのとおおらかで、思慮深く重々しい感じは皆無、もっぱら若々しく見えながらもまったく男を知らぬと云う呈でもなく、決して高貴な生まれでもないのに、一体全体どこにこうまで惚れ込んだかと常々訝しんでおられます。
お通いになる際には念には念を入れてわざわざぼろぼろの狩衣をお召しになり、見た目からして別人になられ、絶対にお顔をお見せにならず、夜更けの誰もが寝静まった頃に人知れず出入りなさいますのが、昔話に登場する物の怪の類いさながらで、女人も不気味で情けなくも思うのですが、それでも全体像のおおよそは手探りで知れます、どこまで高貴なお方であろう、やはりあの女好きの仕業に違いあるまい、と大夫惟光を疑いつつも、当の大夫はそう思われていることなんぞ露知らぬ風であちらこちらと摘まみ食いに余念がありませんから、女人としてもどういうつもりなのかしら……と腑に落ちず、予測もつかない事態にただただ困惑するばかりなのでした。
源氏の君も、ここまで裏表なく気を弛ませておいていきなり何処ぞへ逃げ隠れてしまわれたら、何処を目安に探し出せばよいのか、どのみちこの家は仮の宿であろうから、いつ何時何処かへ移ってしまうような日が来ないとも限らないと不安に苛まれるにつけ、万が一追いかけても行方が知れないようになってもなお特別な女だと思えるのなら、所詮は仮初めの関係だったと割り切ることも出来そうだけれど、今のところは到底そういう境地には至れないご様子です。人目を気にされて、お逢いになる間隔を空けておられる夜な夜ななどには、胸が張り裂けるほど苦しみぬいておられ、やはりこうなったら身分を隠したまま二条院に迎え入れよう、たとえ世間に知れて面倒なことになったとしてもそれも私たちの運命というものだろう、我ながらここまで人に思い入れたことはついぞなかった、一体どういう前世の契りなのだろうか……、などとまで思い至られるのでした。
「どうですか、ここよりもっと気の休まるところでのんびりお話しましょうよ」と水を向けられますと、「どうでしょうか……、貴方のことをまだよく存じ上げませんし、そう仰っても常の男と女とは異なるお付き合いがいまいち胡乱に思えて……」そんな風に無邪気に云いますので、それはそうかもと微笑まれ、「ということは私か貴女のどちらかが狐ということになるんでしょうね。だったらいっそ騙されてみては如何ですか。」と心安く仰いましたら、女も妙に納得して、そうなるのも一興かもと思うのでした。世間では滅多にお目にかれない都合の悪い間柄かもしれませんが、もっぱら疑いもせず従順に振る舞う心映えを可愛くて仕方がないと感じられるにつけ、やはりこの人はあの頭中将の常夏ではないかとの疑いが強まり、あの折中将が話していた女の気性をふと思い出されたりもいたしますが、隠すには隠すなりのわけがあるのだろうと、敢えて問い糺すような無粋な真似はなさいません、顔色を変え、ふいに心変わりして姿を隠すような素振りも見せません、ご無沙汰ばかりの半ば放置の関係なら、そう思っても致し方ありませんが、いっそ誰ぞに軽く心移りしてくれた方がそそられるかもしれん、とそんな風にまでお考えになるのでした。