
八月の十五夜、一点の曇りもない月影が、隙間がちの板屋根に余すところなく降り注ぎ洩れていて、源氏の君は見慣れない家屋の情景を珍しがられておられます、そろそろ夜明けが近づいてきたのでしょう、近所の家々から目覚めたばかりの不穏で野太い賤しい男どもの声がして、「ああ、なんて寒いんだ!」「今年は商売もあがったりだよ!田舎に出掛けるのもねぇ、どうせ大した商いにもならんしなぁ。北隣のお方、ちゃんと聞こえてますか。」などと云い合っているのが聞こえてきます。下々の者たちがそれぞれの仕事にとりかかるべく起き出してきて、ざわざわと騒いでいるのがすぐ近くに聞こえるのを、女人はいたく恥じ入っています。ええ格好しいの見栄っ張りなら穴があったら入りたいと思うような住まいでしょう。それでも、根っからののんびり屋さんで、しんどいことや嫌なことや気まずいことにはほとんど頓着しないらしく、振る舞いに品がありかつ天真爛漫で、ありえないほどやかましい隣の無礼が一体どういうことなのかいまひとつ状況が掴めていないようですので、むやみに恥ずかしがるよりずっと罪のない姿に見えるのです。
ごろごろと鳴り轟く雷より大きな仰々しい音で踏む臼の響きが、枕のほんの先から聞こえてきます、ああうるさいとは思うものの、何の物音かも思い及ばず、よく分からないがともかく気に障る音なのは確かだと聞いておられます。その他もろもろ、鬱陶しいことばかり起こるのです。白妙の砧を打つ音も、あちこちからうっすらと聞こえてきて、それに空を飛んでゆく雁の鳴き声が混じり、ひっくるめてえもいわれぬ情緒を醸し出しています。
御座所が端の方にございましたので、遣戸を引き上げられ、お二人並んで外を眺めておられます。猫の額ほどの庭には趣味よく呉竹が植えられ、前栽に宿る露はこんなささやかな庭でもきらきらと煌めいています。虫たちが盛んに鳴き交わし、壁の中にいる蟋蟀ですらいつもは遥か遠くに聞いていらっしゃるのが、今朝は耳のすぐ脇で鳴き乱れているのを、むしろ趣向が違って面白いと感じられますのも、心底惚れた弱み、あらゆることに寛大になられておられる証でありましょう。
女人は白い袷に、薄紫のなよなよとした衣を重ね着しており、決して華やかではありませんが、その姿がとても愛くるしく抱き締めてやりたくなるほどで、取り立ててここという美点があるわけではありませんけれども、華奢でやわらかく、何事か口にする時の仕草がたまらなく愛しいと思えてなりません。これで少々おすましなところが備わったなら……、とご覧になりながら、更にいっそうしっぽりと寄り添い合いたいと思われて、「そろそろ、ここからほんの近くの場所で、もっと親密に夜を明かしましょうか。こうしてばかりいると気詰まりですからね。」そう仰いますと、「あら、またそんな急に……。」とやんわりと制します。来世までのお約束を固くなさいましたら、少しずつ打ち解ける素振りを見せてきますが、どこかしら源氏の君がご存じの女人たちとは違う風で、世間ずれしているとも思えず、この際他人の思惑なんぞお構いなしのご心境になられ、女房の右近をお召しになり、随身を呼び寄せて御車を引き入れられました。この家の女たちも、お志が並大抵ではないと重々承知いたしておりますので、一抹の不安は残しつつも、どうぞお願い申し上げますと頼みにするのでした。
夜明けが近づいてきました。まだ鶏の声は聞こえません、御嶽精進の祈祷でしょうか、老人らしき額づきながら発する声だけが聞こえまうす。立ったり座ったりしながら非道く難儀な様子で、なんと苦しそうな、朝露と大差ないこの世に一体何をそこまで欲深く求めての祈りなのか……、そう思われた源氏の君は耳をお澄ませになります。「南無当来導師」と唱えて拝んでいるようです。「あれが聞こえますか。今世だけでなく来世にも願をかけているんですよ。」と深く胸を打たれ、
優婆塞の行が導いてくれる仏の道が標です、どうか来世の契りをゆめゆめ忘れないでくださいね
長生殿と楊貴妃の故事は禍々しいので、長恨歌の比翼の鳥を引き合いに出され、弥勒菩薩がお姿を現される日までものお約束をなさいます。あまりに途方もない先々の願い事でございます。
遠い将来の約束事を知ってしまったこの身の苦しさ、この先のことなど予め頼みにすることなどどうして出来ましょう
こうして歌を詠み交わすのも、ある意味仏の道へと続いているのかもしれません。
山の端にかかった月に照らされて、流されるままに何処とも知れず連れ去られてゆくのを女人は戸惑い躊躇っております、源氏の君があれこれと云い含めているうちに、ふいに月が隠れ、白々と空けてゆく空が胸に染みます。これ以上明るくなってしまわないうちにと、例によってそそくさと退出なさいまして、女人を軽々と抱き上げて御車にお乗せいたしますと、右近が同乗してきました。お近くの某院に到着されて管理人を召し出しておられる間、荒れ果てた門の上に忍草が生い繁っておりますのを見上げられ、たとえようもない昏さに驚かれます。まだ霧が深く立ちこめていて、御車の中では簾までも上げておられましたので、お袖もしとどに濡れそぼってしまわれました。「未だかつてこんな風な成り行きになったことはありませんが、けっこう気を遣うものですね。
古人たちもこのように迷い込んだのでしょうか、私にとっては未知の明けたばかりの路に
貴女はご経験済みですか」と仰います。女人は恥じらい、
「山の端の気持ちもよく分かりませんのにただついてゆくだけの月です、そのうち空の上にぽつんと残され消えていってしまうでのでしょうか
心許なくて……」そう云いながらいたく怖がり震えておりますので、源氏の君は、あの狭苦しい家で大勢と暮らしているとそんな心持ちにもなるんだな、と若干面白がっておられます。
御車を引き入れさせ、西の対の屋敷に御座所を設えている間、御車は高覧に引き掛け立てられています。女房の右近はほわほわと艶っぽい気分になり、かつての出来事などに想いを馳せております。管理人がきわめて恭しく細々と手筈を整えている様子から、ご正体が自ずと知れてしまいました。
やがて辺りの景色がぼんやりと見えるようになってきて、御車を降りられました。急拵えの仮の御座所ですが、小綺麗に設えてあります。「御供する者もおりません。まったくもって不調法でございます。」そう申し上げ、気心の知れた下家司で左大臣邸にも出入りしております者ですから、お近くに寄り、「何方かしかるべき方をお呼びいたしましょうか」とお訊ねいたしましたが、「絶対に人が来そうにない所をわざわざ探し求めたのだよ。この度の事は胸に留めて決して口外せぬように。」ときつく口止めなさいました。取り急ぎお粥などのご朝食を拵えお持ちいたしましたが、いかんせん取り次ぎ役の給仕の手が足りません。なにぶんにもお生まれになられて初めての御旅寝でございます、万葉集の息長川を引いて固くお約束をお交わしになるほか術はございません。
陽が高くなってきた頃合いでお目覚めになり、格子を手づからお開けになられます。荒れ放題の庭は無人で、遥か彼方まで見渡すことが出来、木々が鬱蒼として古色すら漂っています。間近の草木にも見るべき処はなく、云うなれば単なる秋の野原、池さえも一面水草に覆われていて、すっかり荒れ果てさながら廃墟のようです。別棟の離れには人が住んでいるらしいのですが、ここからはかなり距離があります。「いつの間にやら非道く廃れてしまったねぇ。これなら仮に鬼が私を見つけても、見逃してもらえそうだな。」としみじみ仰います。
お顔は依然としてお袖で隠しておられますのを、女人があまりに辛がりますので、確かにここまで親密になりながら未だ隔てがあるのは筋が通らないと思われて、
夕露を置く頃に開く花、通りかかったあの折貴女に見られたのがご縁だったのですよ
さて露の光は如何でしょうか、とお訊ねになりますと、横目だけてちらりと見て、
露の光をしかと見たはずの夕顔、あの露はどうやら黄昏時の見誤りだったようです
とだけ聞こえるか聞こえないかの声で云います。なんと殊勝な、と源氏の君のお胸は高鳴りました。ここまで気負いなく打ち解けられたお姿はまさに天上の花、場所が場所だけにいっそ凄みすら漂わせておいでのように見受けられます。
「延々と隠しだてされておられるのが辛くて、こちらも顔をお見せするのを憚っておりました。こうなりましたからには、せめてお名前だけでも教えてください。あまりに水くさいというものですよ。」と仰いますが、「名もない海人の子ですので……」と、それでもなお心を開かぬ素振りが、ずいぶんと甘え上手ではありませんか。「そうですか、まぁこれも自分の蒔いた種ですからね」と恨み言を仰せになりながら、つきせぬ物語をさなるなどしてお過ごしになられます。