
そのうち惟光が居どころを突き止めてやってまいりまして、軽食などをお持ちいたしました。女房の右近が詰るのが目に見えていますので、それも申し訳なく思いますから、お側にお寄りするのは控えます。あの源氏の君がこんなところまでお歩きになられておられるのがなんとも愉快で、そこまでさせるに相応しい女なのだと想像を逞しくしますだに、自分もおそらく首尾よく云い寄ることが出来たはずを、まんまとお譲り申し上げたとは、我ながら何たる心の広さよ!と内心忸怩たる思いに囚われております。
しんと静まりかえった夕空を見遣りながら、女人が暗くて薄気味悪いと不安がりますので、隅の簾を上げ、添い寝をなさいます。夕陽に照らされたお顔を見詰め合いながら、女人もこのような成り行きになってしまったことが今更ながら不思議でならず、それでも少しずつ少しずつ憂さを忘れるかのように心を開いてゆく様子は、まことにいじらしい感じがします。日がな身を寄せ合いながらも、終始何かに怯えている様子は、どこか子供じみていて健気でもあります。早々と格子を降ろされ、大殿油を持って来させて、「ここまでことごとく隔てをなくしてもなお、まだお心に秘密を抱えておられるとは情けない」と恨みつらみを仰います。
内裏では定めし今頃大騒ぎで探し廻っておられるであろう、何処を訪ねればよいものか……と困惑しているに違いないと思い巡らされ、同時に、自分は一体何をしているのだろう、六条辺りのお方はさぞや悶々となさっておいでだろう、こんな自分を恨まれるのも胸が痛むけれど致し方ないことかもしれん……、申し訳ないという見方からすれば真っ先に思い浮かぶのはあのお方なのでした。純真にお顔を見詰め合っている相手を愛しいと思われつつも、あまりに深く物事を突き詰め、こちらが息苦しくなってしまうほどのお姿を少しでも軽くして差し上げたいと、ついお二方を比べられてしまうのでした。
宵もいくらか過ぎ、ようやく寝つかれた頃、御枕元にすこぶる美しい女がいて、「私の大切な方とお慕い申し上げている者を差し置いて、このような何処にでもいそうな女にうつつを抜かされ、猫可愛がりされますとは、腸が煮えくり返るほど辛うございます!」そう告げるやいなや、傍らの女人を揺さぶり起こそうとしているのが御目に飛び込んでまいりました。物の怪に襲われた心地がしてたちまちはっとお目覚めになりますと、灯が消えておりました。お胸がざわつかれ、魔除けのため太刀の鞘を抜かれて枕元に置かれますと、右近を揺り起こされました。右近は右近でそうとうに怯えており、身体を擦り寄せてきます。「渡殿の宿直を叩き起こして、灯りを持って参れ!と云いなさい」と仰いましたら、「ご無体な、どうして行かれましょう、この暗さの中を」と泣きつきます、「ずいぶん子供っぽいことを云うじゃないか」と思わず笑われて、手を叩かれますと、谺だけが不気味に響き渡ります。聞く者もいないのでしょうか、傍らの女人はわななき震えが止まらず、呆然とするばかり。汗だくで、意識も朦朧としています。
「わけもなく物に怯える質でいらっしゃいますから、お気持ちを推し量りますに……」と右近も申し上げます。いかにも羸弱で、昼間もずっと空ばかり眺めていましたので、傷傷しいと思われて、「私が皆を起こしてくる!手を叩いたところで谺がうるさいだけだから。ここでしばし付き添って差し上げてくれ」そうお命じになって右近を引き寄せられて西側の妻戸にお出になり、戸を思い切りお開けになりましたところ、渡殿の灯火がすっかり消えておりました。
少し風が吹いているにもかかわらず、人はほとんどおらず、お仕えする者たちはほぼ全員眠っています。この院の留守番の息子で、源氏の君が日頃から気安くお使いになっておられる若い男に、殿上童が一人、後いつもの随身の三人しかおりません。お呼びになると返事をして起き上がりましたので、「急いで紙燭を持ってこい。随身には弦打をしながら大声を出し続けるようにと命じよ。こんな人気のない所で正体もなく眠りこけるとはもってのほか!惟光朝臣もいたであろう、今どこにいるのだ」と語気荒く問われましたら、「参ってはおりましたが、さしたるご用もなさそうだから、明日の朝お迎えに上がるよ、と云い残して帰ってしまいました」とのことでした。
このお返事申し上げた留守番の息子は、瀧口の武士ですので、弓を手慣れた手つきで打ち鳴らし「火あやうし」と云い云いしながら留守番部屋へと戻ってゆくようです。宮中へと思いを馳せられ、宿直の名乗りももう終わった頃だろう、そろそろ点呼が始まっているはず、と推し量られるのは、夜もさほど更けていないからでしょう。
御座所へ戻られますと、女君は依然として臥したままで、右近までもがお側に臥しているではありませんか。「どうなっておるのだ!怖がりにも程がある!荒れ果てた所には妖狐の類いが出て人をたぶらかそうと悪さをすると云うではないか。私がいる以上、そんな輩に騙されるものか!」そう仰って右近を引き起こされます。「くらくらいたしましてあまりの気持ち悪さについ臥しておりました。姫様もさぞやお苦しいのでは……」と云います、「そうだ。どうされましたか」と仰って手探りでお触りになられましたところ、息をしておりません。お体を揺さぶって起こされようとなさいましたが、ぐにゃりとするばかりで完全に気を喪っておられます、子供のような方だったから、物の怪に憑りつかれたのだろうと、一瞬頭の中が真っ白になられました。
そこへ紙燭を携えた若い男がやってまいりました。取り次ぐべき右近も身動き出来ませんので、手近の几帳を引き寄せられ、「もっとこっちに持ってこないか」と仰います。未だかつてないご指示で、御前に近寄るなぞあまりに畏れ多く、庇の手前にすら昇ることが出来ません。「なにをぐずぐずしておる。遠慮も時と場合によるぞ」と強いてお近くにお召しになり、紙燭に照らしてご覧になりましたところ、女君の枕元のほんの先に、夢に現れたと瓜二つの女の幻がふと浮かんで消えました。昔物語にはこういう場面があったと聞いているけれど……、と珍しくもぞっとされましたが、まずは何はさておき眼の前の人の容態に胸がざわつかれ、ご身分もお忘れになり添い寝され、「もし」と目覚めさせようとなさいましたが、女君のお体はすっかり冷えきって、とうに息絶えておりました。
どうにも手の施しようがありません。相談出来るような頼もしい相手もおりません。もしここに法師などがいたならこんな場面で頼りにもするものを、気丈に振る舞ってはおられますが、とはいえまだお若くていらっしゃるお心には、息を引き取った人を目の当たりになさって途方に暮れられるばかり、ぐっと抱き締められては「私の愛しい人、どうか生き返ってくだされ。こんな悲惨な目には遇わさないでくだされ。」とお声を掛けられますが、なにぶんにも冷えきったお体、徐々に徐々に遠退いてゆかれるようです。右近はといえば、単に畏れおののいていただけの気分が消え失せ、泣きじゃくっているのが傷傷しいばかりです。その時、紫辰殿に棲む鬼が某大臣を脅かした逸話を思い出され、はたと気を取り直されて、「よもやこのまま死んでしまわれるはずもなかろう。夜は殊更に声が響いてしまう。静かにしなさい静かにしなさい。」と諌められ、あまりの急な展開にただただ呆然としておいでです。