
改めて先ほどの男をお召しになり、「ここに、すこぶる奇怪なことに、物の怪に襲われ気を喪っている人がいる、『大至急惟光朝臣の居所を突き止め、直ちに参上せよ』と申し伝えよ。もし兄の某阿闍梨がまだいれば、ここに来てもらうよう内々に伝えよ。母の尼君が耳にされんとも限らない、決して大袈裟に云わぬように。あの尼君は、私がこのようにふらふらほっつき歩いているのを苦々しく思っておられるから。」そう細々と指示されながら、実のところお心にはまったく余裕がおありでなく、この人をこのまま死なせてしまったら……、との悲痛な心情に呼応するかのように、辺りを覆う不気味さは並大抵ではありません。夜中を廻ったのでしょうか、風がいくぶん強まってきました。加えて松の葉を揺らす音が木立の奥から聞こえてきて、なにやら意味深な鳥の虚ろな鳴き声もします、あれが梟であろうかとふと思われます。それやこれやをぐるぐるとお考えになられますと、何処もかしこも人の気配から程遠くて薄気味悪く、もちろん声もまったく聞こえません、どうしてまたこんな空虚な宿を撰んでしまったのか、悔やんでも悔やみ切れないとはこの事です。
女房の右近はといえば、茫然自失の呈で、ひたすら源氏の君にぴたりと身を寄せながら、いつ戦慄いて死んでもおかしくありません。ひょっとしてこの女まで死んでしまうのか、と空っぽなお心でひしと抱き締めてやっておられます。この場で頭がしっかりしているのは自分一人、そんな状況でまともなお考えが出来るはずもありません。灯りがほんのりとちらついて、母屋と庇の間に立てている屏風の上、部屋の隅々の暗闇がいっそう深まったと思われた途端、物の怪らしきものの足音がみしみしと背後から近付いてくる気配がします。惟光よ早く来い、としきりに思われます。なにぶん毎夜毎夜うろつき歩いている男ですので、使いの男もあちこち探し廻っているに違いありません、ただお待ちになられているだけの源氏の君にとっては、夜が明ける遅さたるや、千年の時にも匹敵するように感じられます。やっとのことで遠くに鶏の鳴く声が聞こえてきました、命を懸けるほどの辛苦を味わされたのは一体全体どういう巡り合わせなのだろうか、身から出た錆とはいえ、色恋の道において身の程知らずの道に外れた想いの報いから、今もまたこの先もずっと方々で話のたねになるような結果を招いてしまったのだろうか、隠そうと思って隠し切れるはずもなく、いずれお上のお耳に届くのは云うに及ばず、巷であれこれ話に尾鰭が附いて、噂好きな女童の格好の語り草になるであろう、やがてそのうち恥ずべき汚名を頂戴することになるに相違ないと思い巡らせておられます。
やっとのことで惟光朝臣が参上いたしました。常日頃、朝といわず昼も夜も御意に叶うことに喜びを感じていた者が、今宵に限ってお側におらぬばかりかお召しにもすぐに参上しない醜態を、憎いと思われながらも、いざお側にお召しになって出来事のあらましをお話になる段になりますとどうしてもその虚しさからすぐにはお言葉がお口をついて出てきません。右近は惟光の気配を感じ取りますと、事の初めから想い起こされてまた泣いております、源氏の君も辛抱たまらず、自分一人だけでもしっかりしていなくてはと強く念じておられたのが、惟光を前にされ気が弛まれたのでしょう、悲しみがどっと押し寄せて来、しばらくの間、正体をなくされるほどにさめざめと泣いておられました。しばし躊躇われた後、「ここで、不可思議極まる出来事があってね、驚きを通り越して呆然としているところだ。このような火急の事態が出来した時には誦経などがよいというふうに聞いたことがある、そうしてやりたいのと、願もぜひかけさせたいので、阿闍梨に来てもらいたいと云ったのだが……」と仰いました、「申し訳ございません、阿闍梨は昨日山へと帰ってゆきました。それにしてもなんとも面妖でございますねぇ。以前よりいつになく具合がよろしくないような兆候がおありだったのでしょうか」「そんな素振りはなかったよ」とお答えになり再び滂沱の涙を流されますお姿が、あまりにお美しくかつまた愛らしくもあり、惟光にもその悲しみが伝わり、よよともらい泣きしてしまいます。そうは云うものの、齢を重ね経験豊富で、この世の様々な場面に遭遇したことのある人ならこんな時に心強いのですが、二人してまだ年若く、致し方ありません、それでも惟光が「この院の留守居役の耳に入れば何かと不都合でございましょう。留守居役一人ならば気心が知れていますから安心かもしれませんが、あの者にも無意識に喋ってしまうような家族もおりましょう。ともあれまずはここをお出になられることですね。」と云いました。
「ここより人の少ない家があるわけがないよ」と仰います。「仰る通りでございます。ただ女人のお家は女房どもが悲しみに耐えきれず泣き狂うでしょうから、建て混んだ隣近所に筒抜けになり、非難する里人も多ございます。山寺はいかがでしょうか、山寺では死者がひっきりなしに運び込まれますのでそれに紛れるのは容易かと存じます。」と思いつき、「遥か昔に顔見知りだった女が尼になっております、その者が住まう東山の辺りにお移りいただきましょう。実は私の父朝臣の乳母だった女が、年老いてあの辺りに住んでおるのでございます。周辺にはそれなりに家がありますが、尼の庵は囲いがしっかりした物静かな所でございます。」そう申し上げ、夜明けてすぐの人の往来に紛らせて御車を寄せました。
悲歎のあまり力をなくした源氏の君は、女人を抱き上げかねましたので、惟光が上敷きに押し入れお包みし御車にお乗せいたしました。なんという華奢なお体、まったく不自然なところも見えず、可憐にさえ見えます。当然ぎゅうぎゅうに包み込むわけにはまいりません、気づけば髪がこぼれ出ており、それが目に飛び込んできた瞬間目の前が真っ暗になるほどの衝撃と悲しみに見舞われていおしまいになり、こうなった以上はせめて最後の姿だけは見届けたいと切に思われますが、惟光は「一刻も早く馬で二条院にお戻りになられますよう。人が行き交って騒がしくならぬうちに。」と云い、女房の右近を御車に乗せると歩く出で立ちになり、自身の馬は源氏の君に献上して、裾を膝まで捲り上げました、どう見ても不審な予期せぬ野辺送りなのですが、源氏の君の青褪めたお顔を拝見し、この身はどうなろうと構わないと覚悟を決めて向かいます、方やの源氏の君は何も考えられず、心ここにあらずの呈でご帰還なさいました。
家の者達は、「一体何処からお戻りになられたのでしょう。お悩みがおありのようにお見受けするのだけど……」などと云っていますが、御几帳の内にお姿を隠され、お胸に手を当てられじっくりお考えになられますと、悲しみはいや増すばかり、なぜあの車に乗り寄り添って差し上げなかったのだろう、まかり間違って生き返った時、私が側にいないのをどう思うだろうか、自分を見捨てていってしまわれたとさぞかし嘆き悲しまれるであろう……、混乱したお心でそんなことが気にかかられ、込み上げてくるものにお胸が締め付けられます。激しい頭痛と発熱で、いたく苦悶なさいまして、こんな状態で自分もふっと死んでしまうのかとまで思われておられます。