
光源氏という方はお名前ばかりが一人歩きし、光なんぞと云うなかれと否定されておしまいになるような失態も多々あります中、さらにこのような恋愛遍歴を後世に伝えられ、いかにも軽佻浮薄な奴との噂が広まってしまうのはいかがなものかと注意深く隠しておられた秘め事までも白日の下に晒して流布させたとは、人の口さがなさにもまったく困ったものです。とは云え、ある時期までは猫をかぶっておられたのか真面目な素振りで過ごされておられましたので、実のところ武勇伝というほどの浮いた話もなく、名にし負うあの交野の少将が聞かれたらせせら笑われたことでしょう。
まだ近衛中将の御身分であられた時分は、お気楽にも宮中にばかりおいでになり、めったに左大臣邸にはいらっしゃいませんでした。いずれかで忍ぶ恋でもなさっておいでなのかしら……、とお里の女房たちが気を揉むこともあったようですが、彼女たちが考えるようなその場かぎりのかりそめの恋は好まぬご性分で、とは云うもののどういうわけか本来のご気性とは正反対に、つい悩み事を抱え込みそのことに没入されてしまうという厄介な性癖をお持ちなためか、らしからぬ行動をとられることも稀におありのようです。
長雨の止まぬ五月の頃です、宮中の物忌みがずっと続いておりました折に、いつにも増して源氏の君が禁裏に長居されておられるのを、左大臣としては気が気でなく忸怩たる思いを持て余しておられましたが、それでも気丈に御装束諸々にちょっとした珍品までも添えられて届けて差し上げ、ご子息たちも源氏の君がおられる宿直所に出仕されおつとめを果たされておいででした。
左大臣の正妻でいらっしゃる姫宮との間のご子息頭の中将は、中でも一番仲がおよろしく気の置けない間柄でいらっしゃいます、ちょっとした遊興の際にも打ち解けて人懐こく振る舞われています。それもそのはず、こちらの頭の中将も常に下にも置かぬ扱いをされる婚家の右大臣邸がどうも居心地悪く、少々浮わついた伊達男でいらっしゃるからなのです。御実家左大臣邸の御自分のお部屋を選りすぐりの調度類で飾り、源氏の君がたまさか帰られる際には決まって同伴され、昼夜を問わず学びも遊びもご一緒でこれがまた決して遜色ないものですから、何処へ行かれるのにも連れだっているうちに、自然と心安くなられ、隠し事もつい打ち明けてしまうような親友とも呼べるお付き合いをされておいででした。
うんざりするほど終日降り続きどこかしらもの悲しい雨の夜、宮中の人影もまばらで、宿直の詰所もいつになくくだけた雰囲気でしたので、源氏の君は御殿の灯りを近くに引き寄せ手紙類に目を通されておられます。それを見た頭の中将が、側の厨子から様々な紙に認められた何通もの手紙を引っ張り出してきて、中身をやたらと知りたがりますと、「差し障りのないものでしたら、少しくらいはお見せしてもいいですけど。中にはみっともないものもありますからね。」と渋られます、「そのちょっと馴れ馴れし過ぎて見苦しいと思われるものこそそそられますねぇ。大体においてありふれたものなら、不肖私程度でも取り交わしておりますし。それぞれの女たちがつれなさを嘆いた折々のものや、待ちわびた夕暮れ時のもの、そういうのがグッと来るんですよ」そう云って怨みがましくせがみます、そもそも愛しくてたまらない門外不出の手紙なぞ、誰の目にもつくような厨子にしかも無造作にしまっておかれるはずもありません、きっとどこかにこっそりお隠しになられているはず、これらは云ってみれば二流どころのものなのでしょう、中将は一通一通ちらちらと目を通しながら「よくもまぁいろんな方からのものがあるものですねぇ」そう感心しては、思いつくままにこれはあの方こちらはあの方と詮索してはみせるものの、中には図星のものもあれば、まるきり見当違いの方を想定して疑ってみせたりなどするのを、源氏の君は内心苦笑なさりながらごく控え目に受け答えしては結局隠してしまわれたのでした。
「そちらにこそ相当おありなんじゃないですか。ちょっと見せてくださいよ。そちらのを先に見せていただければこちらのも気前よくご披露しますから」と仰いましたら、頭の中将は「琴線に触れるような手紙はまずございません。」そう即答され、続けて「これは!と思うような完璧な女と出逢うのが至難の技であるのは、この頃ようやく身に沁みて解ってまいりました。もちろんほんの上っ面の情愛で走り書きし、当意即妙に小手先で応答するくらいなら難なくこなしてみせる女はけっこういると思いますが、本気で筆遣いや歌を取り上げて傑出した者を撰ぼうとするとこれはもう不可能に近いですねぇ。自分の得意分野のことばかり鼻高々に連ね、人を見下す言を弄するとか、実に噴飯ものが多い多い。親なんぞがみっちり張り付いて蝶よ花よ崇めたて、これから先の長い長い実りある人生を夢見ながら深窓の内にいる時分なら、ちょっとした取り柄の一端を漏れ聞いて好奇心がくすぐられることもあるでしょう。容姿に恵まれ性質も穏やかで特に他に気を取られることもない年頃であれば、お稽古事も上手な人を真似ながら熱心に打ち込み、そのうちそれなりの型を身につけて一芸に秀でる者もおります。世話を焼いている人は、欠点には口をつぐみ、この先まず問題なかなろうという部分のみを粉飾して云いふらすものですから、そこまでのものかしら……と頭から疑ってかかるわけにもゆきません、ひとまず信じてお付き合いしていると徐々ににぼろが出て結局はあてが外れてしまうのが関の山ですね。」まるで呻き声さえ聞こえるかのような聞いているこちらが顔を赤らめてしまうほどの臨場感で一気に捲し立てられます、一から十まで同じというわけではありませんが、源氏の君も身に覚えがおありだったのでしょう、思わず苦笑いされながら、「誰しもどこかしら美点があるものですよ」と仰ると、「はっきりその程度とわかっていれば、こちらもみすみす騙されたりはいたしませんよ。取り柄なしのどうしようもない女と、これは上物と惚れてしまういい女、この二つの数は大体同じくらいですねぇ。上流の家に生まれれば、取り巻きたちが多い分隠し事も多い、よく見えてしまうのも自然の成り行きです、中流の女は人それぞれ、個性がくっきりしている者がわりといて、優劣の見極めがつきやすい場合が多く、その下となりますと取り立てて耳に入れるまでもありませんね。」そう万事万端ご存知の風でいらっしゃるのについ気が乗って、「その品に関してですが、何を根拠に三つに分類すればいいんでしょうね。元は高貴な生まれなのに落ちぶれて世間からも忘れられ低い位に甘んじて人としてまともに扱われないのと、低い身分から公卿にまで昇り詰め、得意顔でこれ見よがしに邸内をごてごてと飾りすっかりいっぱし気分でいるのとでは、どちらが上でどちらが下ということになるんでしょう。」と問われたその時、左馬頭と藤式部丞が物忌の詰所に顔を出しました。二人揃って色好みの評判も高く話上手ですから、頭の中将は待ってましたとばかりに座に引き入れ、先ほどの品の分け方について侃々諤々の議論を戦わせます。いささか聞き苦しい話も多々あったように思います。
「成り上がったと云え、そもそもの生まれが位に相応しくない者に対しては、世間の見る目はそうは云うもののやはり違うものです。また元をただせば高貴な生まれであるにもかかわらず、生計を立てる手だてがほとんどなく、時勢におされ人望も衰えてくれば、自尊心だけは相変わらずでも日々の暮らし自体が成り立ちがたく外聞のよろしくない事も起こってきますから、総合的に判断して中流に組み込むべきではないでしょうか。方や受領という、任地に赴き地方を治める国司たち、彼らの身分はたいてい決まっており同じようなものですが、若干の上下もあるようで、中には中流に入れても差し支えない者もおり、そういうのが撰べるというのも昨今の風潮でしょうねぇ。なまじの公卿より、非参議で四位の、世間の評判もまずまずで元はそれなりの家柄の出の者たちが平穏無事に生きてゆったり振る舞っているのは、いっそさっぱりしていて見ていて清々しい気がしますよ。何不自由のない暮らしを営み、金に糸目をつけずこちらが照れくさくなるほどきらきらと飾り立てかしづかれている娘で、文句のつけようのない育てられ方をされているのもわりに多いんじゃないでしょうか。宮中に出仕して、思いもよらぬ幸運を掴む娘の中にはこの辺りのがけっこういますねぇ。」等々云いつのりますので、思わず源氏の君が「ということはとどのつまり金持ちの娘に限るというわけですか」と笑って茶々をお入れになりますと、「貴方らしくもない考えなしのお言葉ですね!」と中将は仏頂面になります。
「申し分ない出自に高い世評、二つながらに兼ね備えた高貴な家柄の娘でも、肝心の親の教育に問題があり見劣りしてしまうのは、まるで話になりません。何をどう間違えてこう育ってしまったかと口にするのもばかばかしいと思うでしょう。もっとも出自世評共に揃っていれば、娘の出来がよいのは当然と云えば当然、今更驚くに値しないですよね。私ごときが手出しできるはずもない遥か上のご身分の方につきましては、寸評を控えさせていただきます。それはさておき、世に隠れ、寂れ荒れ果てたあばら家に、思いがけず素敵な方がひっそり閉じ籠もって暮らしているのは、これはもうめったにお目にかかれるものではないですね!こんな方が何故こんな所に……と、その記憶は褪せることなく心に残っております。
父親がすっかり年老いて、見るも無惨に肥満し、兄の顔も汚ならしい、たかが知れていると見切っていた寝室に、それはそれは気位が高くちょっと披露してみせる芸事などもいわくありげに見えてしまう女、たとえその芸がたいしたものではなくても、こういう女は意外性があって惹かれてしまうものです。何もかもお持ちの方を撰ぶには及びませんが、それはそれで捨てがたいものがあるんですよねぇ。」馬頭がしみじみと云って式部丞に目を遣りますと、さては昨今自分の妹たちの評判がいいのでそれにかこつけてあんなことを仰るのかしらんと無言のままです。源氏の君はと申せば、上流と呼ばれる方々の中にすら、非の打ち所のない女性はそうそういないご時世なのに……、と思っておられるのでしょうか、白い一重のご装束がそれでなくとも柔らかくなよなよとしているのに、直衣のみの怠惰ないでたちで、紐もほどかれて柱に物憂げに凭れかかられていらっしゃるのを灯りがぼんやり照らしている艶姿は、ぜひ女になって拝見いたしたいものです。このような方になら、上の上の女より選りすぐってもまだ全然釣り合わない!誰しもがそう見えてしまうでありましょう。