
先払いもさせず、こっそり中に入られ、人気のない廊下で直衣を持って来させてお着替えになります。素知らぬ顔でさも今宮中から戻ってきたばかりの呈を装い、手すさびに笛を鳴らしておられますと、いつもの如く左大臣がお聴き逃されず、高麗笛を取り出されました。その道の上手と名高い方ですので、実に絶妙
な音色を奏でられます。更にお琴を運ばせて、姫君のいらっしゃる御簾の内の心得のある女房に弾かせます。
中でも中務の君と呼ばれる女房は、特に琵琶の手練れなのですが、頭中将の口説きを拒みながら、源氏の君からのごくたまのお情けは拒み切れていないのが、いつの間にか知れ渡っており、左大臣の奥方様などもずいぶんご気分を害されておられますので、居心地が悪く気分も沈みがちで、所在なげに何かに凭れかかっております。とは云え、源氏の君がこれきり目の届かない遠くに行ってしまわれるのも、さすがに淋しい気がして、内心はとても複雑です。
源氏の君と頭中将のお二人は、ついさっき耳にした琴の音色を思い出され、あの荒れ果てた家の佇まいまでもが風変わりに感じられ興をそそり、中将に至っては、おそらくありえないがもしあの家に絶世の美女が何年も隠れ住んでいて、逢瀬が叶って入れあげてしまったりした暁には、さぞや醜聞となるであろうし自分も格好がつかなくてさぞ悩むことになるだろうとまで妄想を逞しくするのでした。
その後、お二人それぞれがお手紙をお遣わしになられたはずです。ですが、どちらへもお返事はありません、不安ともどかしさから、愛想なしにもほどがある、あのような侘しい家に住んでいればそれなりに感受性も豊かなはず、移ろいゆく草木の姿や刻々と変わる空模様を見ては、しかつめらしくそれらを詠み込んだ歌のひとつも物する、そういうところから人となりや心映えが推し量れるというもの、いかに重い身分とはいえ、ここまで内向的なのは興醒めだし感心しない、と中将がことに苛立ちをつのらせております。ご存じの通り、頭中将は裏表のないご気性ですので、「例のところから返事はありましたか。試しにほのめかしてみたのですが、中途半端なまま梨の礫なんですよ。」と愚痴をこぼします、やはり案の定云い寄ったなと源氏の君はほくそ笑まれ、「どうでしたかねぇ、取り立てて返事を見たいとも思いませんから、見たような見なかったような……。」そうしれっとお答えになります、自分は袖にされたんだなと覚った中将は激しい嫉妬に駆られました。
源氏の君はと申しますと、特に深く想い詰めていたわけでもなかった相手からこうも冷淡にされますと、すっかりその気も失せてしまわれていたのですが、あそこまで中将が想い入れているようなら、最終的にはより言葉巧みに口説く方に靡くに違いない、その時点で得意気に先の男は振ってやったわという態度をとられても、それはそれでいささか鬱陶しいことにもなろうと思われ、大輔の命婦に改めて細々と相談なさるのでした。
「お気持ちが量れず近づけまいとされているとしか思えない雰囲気が実に気に入らない。どうせ私のことを名うての女たらしとでも疑っておられるのだろうね。皆さんそう仰るけれど、これでも移り気な心は持ち合わせていないんだよ。女の側におおらかな心がないと、どうしても不慮の出来事が起こってしまう、そしてそれはすべて私のせいだということになってしまうのだ。おっとりして、横槍を入れたり文句を云ったりする親兄弟もいない心落ち着ける人なら、いかにも愛しいと思えるはずなのに。」そうお怒りをぶつけられますと、命婦は「いえもう、そのような甘い仮の宿にはまったくもって不向きな方でございます。ただただ恥ずかしがり屋で、その控え目なことと申しましたら滅多にお目にかかれないほどのお人でございますから。」と見たままをお伝え申し上げます。「ならよく気が廻る才覚のある女ではないということだな。子供っぽいくらいにのんびりした女こそ可愛いと思えるものなんだよ。」と仰る源氏の君のお心には忘れ得ぬ夕顔の面影がございます。
瘧病を患われたり、誰にも打ち明けられない想いから道を踏み外されたりと、お心の休まる暇もないままに季節は春から夏、やがて秋へと移り変わってゆきました。
秋になり、独りぼんやりと物想いに耽られる折には、あの夕顔宅で耳にされた聴き苦しかった砧の音までがまざまざと蘇り、またしても恋しさが募って、常陸宮へと幾度となく手紙を書いてお遣りになるものの、依然としてお返事はまったくありません、これは一筋縄ではゆかない女だとご不快になられ、このまま敗けを認めておめおめ引き下がってたまるものかという闘争心すら芽生えておしまいになり、改めて命婦を責め立てられます。
「どうなっておるのだ。こんな辱しめを受けたことは未だかつてないぞ。」と語気を荒げられますと、さすがに命婦も恐縮しきりで、「かけ離れた似つかわしくないご縁とは一切申し上げておりません。何事につけ必要以上にご遠慮なさってしまうご性質ゆえ、お手を触れることが出来かねておられるものとお察しいたします。」そう弁明いたしますと、「世慣れていないのにも程があろう。右も左も分からないような子供ならまだしも、身の処し方を知らず万事親がかりなら致し方あるまい、あらゆることをきちんとご判断出来る方とお見受けしているからこそ、こうしてお近づきになろうとしているのに。このところどういうわけかずっと心細くてならない、そんな気持ちに同調してくださり、お返事をいただければ願ったり叶ったりなのだ。何かと面倒な恋愛沙汰に持ち込む積もりは毛頭ない、あの荒れた簀に佇みたい、ただそれだけだのだ。このままではじれったくてもどかしいばかりだから、お許しが出ないなら出ないなりにどうにか云いくるめて手筈を整えてくれ。心配せぬともよい、貴女を困らせるような不埒な真似は絶対にしないから。」などと懇願されました。
大体において源氏の君というお方は、さりげなく噂話をお聞きになりながら、実はしっかりご記憶に留められるといった質をお持ちなのです、どこかしらうら淋しい宵語らいの折に、このような方がおられますとちらりと触れただけにもかかわらず、ここまで執着されあれこれと申し付けられますのを、命婦はもはや煩わしいとまで感じております、そもそも姫君そのものが女らしくもない上に美点もほとんど見当たらず、なまじ手引きなどした日にはきっとお気の毒な目に遭われるのは見えておりますが、一方で源氏の君の熱のこもったお申し出の数々を、まったく無視してしまうのも性悪と云えば性悪です、振り返れば常陸宮がご存命であられた頃でさえ、明らかに時代から取り残された感が明白で、訪ね来る人も皆無に等しかったのが、今となってはすでに浅茅を踏み分けて邸内に入ろうとする酔狂な輩すら途絶えてしまっていますから、頭の足りない女房たちがよってたかってにやにやしながら、「やはりお返事いたしましょうよ。」とそそのかしますが、依然として意固地なまでに一切文に目を通そうとなさいません。