
どうにもお眠りになれませんようで、「私は生まれてこの方、人に憎まれたことがないのだよ、それが今宵はじめて男と女の無情を思い知ったのだ、恥ずかしくて身の置き所がなく生きているのが辛い気がしてならない……」などと呟かれますので、小君は涙までこぼしながら寝ています。その姿を源氏の君は実に愛すべきものとお思いになられます。昨日の夜手探りで触れた女君の華奢な体つき、髪もさほど長くはなかった感じと、心なしか似通っているようにも見てとれるのがたまらなく愛しいと思われてなりません。これ以上執着して這うように隠れ家に忍び込むのも、あまりにみっともなく、まったくもって頭にくるとまんじりともなさらず夜を明かされ、常のようなお優しいお言葉ひとつかけてやることもなく、まだ宵のうちからお帰りになられますので、小君はなんとお気の毒なと淋しい気持ちになりました。
女君も尋常でない後ろめたさに囚われておりますが、源氏の君からのお便りはめっきり途絶えてしまっています。懲り懲りと思われたのでしょうか、そのうちつれなさに嫌気がさしこれきりにされてしまうのも悲しいといえば悲しい、さりとてこちらが苦しくなるばかりのあのご無体ななさりようがこの先も続くのなら、それはそれで困ってしまう……、どうやらこの辺りをいい潮時にすべきであろうと覚悟を決めつつも、ただ事ではない物思いに沈む日々が続いているのでした。
当の源氏の君は苛々を持て余しながら、どうあってもこのままで終わらせる気はになれず、傍目からも見てとれるほど思い詰められ、小君に、「辛くて辛くて仕方がないから、なんとかして忘れ去ろうとつとめてはいるのだが……、この苦しさを自分ではどうすることもできない……、もう一度折を見計らって会えるよう手筈を整えてはくれまいか」と仰います、面倒だなぁと思いつつ、小君はたとえそんなご用であってもこんな自分を頼ってお言葉をかけてくださるのがうれしくてなりません。
子供ながら、いい機会が訪れないものかと待ち受けておりますと、折よく紀伊守が任国へ下ってゆき、残された女たちがのんびりと過ごしていた日の夕方、道さえおぼろげになった闇に紛れ、自らの車にお乗せして家へお連れしました。なんといっても所詮は子供の謀だからなぁと不安に駆られますが、そうも云っておられません、地味なお召し物で、門が施錠される前に急いで入られました。見張りのいないあたりに車を停めて降りていただきます。まだ子供なので、宿直たちも取り立ててじっくり見てお追従を云ったりしないので、好都合なのです。
東側の両開きの戸の前に源氏の君をお立たせして、自分は南側の隅の間から格子を叩き大声で呼ばわりながら内に入りました。女房たちが「あらあらそれだと見えてしまうではありませんか!」と云っているようです。「なぜこんなに暑いのにこの格子を下ろしちゃうんですか」と訊ねますと、「お昼から西の方がおいでになられ、碁を打っておられるのです」との答え。源氏の君は、ならば向かい合っているところを見なくてはと、そろりと歩を進めて簾の隙間に忍び込まれました。小君が入っていった格子はまだ締め切られていませんので、透き見の出来るところまで寄られ、西側に目をお向けになりますと、こちら側の端に立て掛けてある屏風の隅が畳み込まれており、目隠しの几帳なども、暑いのでしょう帷子を横木に掛けて上げてありますから、中の様子がよく窺えるのでした。
火が側近くに灯されています。母屋の中柱の横にいるのが我が想い人かと真っ先に目を遣られます、濃紫の単襲でしょう、その上によくは判りませんが上着らしきものを着て、細面の華奢で小柄な女人がちょっとみすぼらしくも見えそうな格好で、顔も正面の人にさえよく見えないよう隠して応対しています。痩せ細った指を袂深く引いて強いて見えないようにしています。もう一人は東向きに座っており、余すところなく目に入ります。羅の白い単襲に、紅と藍とに染められた小袿のようものをぞんざいに着て、紅の袴の紐の結び目辺りまで胸元を露にし、かなりだらしない格好です。抜けるような色白の、美人らしい丸々と肥え太った上背のある女人で、頭の形もよく額もくっきりとし、目付き口付きともにぽっちゃりと愛らしい、派手な顔立ちです。ふさふさとした豊かな髪は、決して長くはありませんが、切り揃えた先や肩にかかっている部分に清潔感が漂い、どこにも欠点が見受けられない美人に見えます。これならあの父親の紀伊守が自慢に思うのもしごくもっともだと妙に感じ入っておられます。今ひとつ淑やかなところを添えたらもっとよくなるなとふっと思われたりもいたします。
才気がないわけではないのでしょう。囲碁を打ち終わり、駄目をさす段になり、頭の回転が早そうではしゃぎながらぱっぱと片付けてゆきます、奥にいる人は反対にいたく冷静で、「お待ちになって。そこは持じゃないかしら。この辺りの永劫をまず先に」と云ったりするのですが、「いいえ、今回は負けてしまいました。隅の所はさてさてどうでしょう。」と云いながら「十、二十、三十、四十」と指折り数えていますのが、伊予国の道後温泉の湯桁ですらよどみなく数えられそうな塩梅です。そういうところはやはり品が下がっております。
一方の奥の人と云えば、比べ物にならないほどつつましく袖で口元を隠し露にならぬよう気遣っていますが、目を凝らして見れば自然と横顔が窺えます。瞼がいささか腫れぼったいようで、鼻筋も通っておらず老けており、芳しいところも見当たらない、敢えて云うなら醜女の部類ではありますが、身嗜みに細やかに気を配り、なまじな美人よりずっとよく見えると思わせる佇まいです。引き換えもう一人の朗らかで愛嬌満点の女も、ますます堂々と自分をさらけ出しよく笑いながらじゃれ合っているのが、華やぎに溢れているように映り、こちらはこちらで実に惹かれる人柄と云えましょう。蓮っ葉とは思いつつも、好き者のお心にはこちらはこちらで捨てがたいようです。
そもそも源氏の君が常日頃接しておられる上流の女人たちは、いつもひどく取り澄まし、本性を包み隠して上部だけを見せていらっしゃいますから、ここまで気兼ねなく率直な自分を見せて振る舞っている様子なぞついぞご覧になられたことはありません、警戒心の欠片もなくありのままの自分を見られている女たちが気の毒に思えなくもないものの、しばらくずっと見入っておられましたが、小君が戻ってきた気配がしましたので、そっとその場を外されました。
源氏の君は渡殿の戸口に寄りかかっておられます。小君はそんなお姿をまことに申し訳ないと恐縮し、「めったにいらっしゃらないお客様がお出でで、お近くにお寄り出来ません。」「では何か、今宵も何もなしに帰そうというわけか。それはあまりにもあまりであろう。」と仰いますと「滅相もない!お客様がお帰りになられ次第、ちょっとした細工を弄するつもりでございます。」と申し上げます。そこまで云うのなら今宵は靡いてくれそうな様子が見える気がする、子供だてらに考え方がちゃんとしていて、大人の顔色を窺いつつ冷静な判断が出来ると感心なさるのでした。
その二に続く