源氏物語 現代語訳 若紫その10


 辺り一面霧に覆われて空模様も物々しい趣の中、降りた霜が白々ときらめいて、これぞ本来の逢い引きの朝にこそぴったりの景色なのだがと思われるにつけ、若干の不満も感じておられます。そう云えばと、この道の先に極秘で忍び通っておられる御宅があったことを思い出され、試しに門を敲かせましたが、なしのつぶてのようです。仕方なく、喉自慢の従者に歌を唄わせました。

明けようかという朝、霧の空に迷いそうになるものの、それでも素通りしかねる恋人の家よ

そう二度繰り返して唄わせましたら、さすがに物分かりのよさそうな下女が姿を現し、

わざわざ立ち止まるほど霧に閉ざされた垣根の前が過ぎ去りがたいのでしたら、草に覆われた門なぞなんの障りになりましょう

とそれだけ云ってまた家の内に姿を消しました。待ってもその後誰も出てきません、このまま帰るのも何となく無粋な気がしないでもないのですが、刻々と明けてゆく空に気兼ねして二条院にお戻りになられました。

 ついさっきまでお逢いしていた愛くるしい姫の面影が恋しく、独りにんまりとされながらお床に就かれました。すっかり陽も高くなった頃に起き出してこられ、お便りを認めようとなさいますが、文面もいつものようにはゆかず、筆を置き置きなさっては書きあぐねておられます。やがて姫君のお好きそうな絵を添えてお遣わしになられました。

 あちらの御殿には兵部卿の宮がおいでになられました。ここしばらくよりも更にいっそう荒れ果て、だだっ広い敷地に古びた家構えがうら寂しく、ただでさえ人数もまばらなままなのをしんみりと見渡されて、「こんな所にいたいけな幼な子がほんの僅かな間でもお暮らしになっていてはいけない。やはりあちらの家に来ていただこう。なんの決して狭い所ではありませんよ。乳母にはひと部屋与えて住まわせお仕えさせますからね。姫は遊び相手の子供が大勢いらっしゃる、一緒に遊んでお暮らしになられればなんら問題ないでしょう。」等々申されます。

 傍らに呼び寄せられましたら、今もって源氏の君の移り香が染みておられますので、なんとも芳しい匂いですが、お召し物がかなりへたっており、心苦しくお気の毒に思われます。「よくぞ長らく病んでいたお年寄りの側にいらっしゃいましたね。たまにはこちらに来られて馴れ親しんでくださいとお伝えしていたのですが、どうも信用していただけず聞き入れていただけませんでしたし、あちらの家の人も気兼ねしていたようでした、ですからこの時点で移っていただくのも確かに申し訳ないのですが……。」などと申されますので、「いえいえ。心細いのは変わりませんが、今しばらくはこのままこちらにいらしていただきましょう。そのうち分別がつかれるようになられてから移られても遅くはないと存じますが如何でございましょう。」と申し上げます。

「夜も昼も亡きお祖母様を恋い慕われて、ほんのわずかの食べ物もお口にされません。」と申し上げます通り、明らかにお窶れになられお顔が細っそりされておられますが、それがいっそ気高いばかりの美しさと見えてしまいます。「またどうしてそんなに思い詰められるのですか。もうこの世にいない人の事を考えるのは詮ないことですよ。安心なさい、もう私がいるのですから。」等々親身にお話になられます、日が暮れて兵部卿の宮がお帰りになろうとなさいますと、途端に淋しさが押し寄せて泣きじゃくられますので、宮ももらい泣きされ、「そんな風に思い入れられるのがよくないのです。分かりました、明日か明後日のうちに移して差し上げましょうね。」など、何度も言葉を尽くしてご機嫌をとられ慰められてお帰りになられました。お姿が見えなくなりますと、姫君はお名残惜しさが堪えきれずまた泣いてしまわれるのでした。

 ご自身がこれからどうなってしまわれるのかまではお考えが及ばず、ただ物心ついてからこの方ずっとお側にまとわりついていた方が、今はもうこの世にいらっしゃらないと思うだけで悲しくてたまらず、幼心にも胸が蓋がってしまわれて、いつものように無邪気に遊ぶこともなさいません、昼はまだ気を紛らわせることが出来ますが、夕暮れ時には気が滅入り鬱いでばかりおられます、こんなご様子ではこの先どうやってお過ごしになられるのか……、と慰めの言葉もお掛けできずに乳母たちもただ泣き合うしかありません。

 源氏の君の御殿からは惟光が遣わされてまいりました。「お伺いいたしたいのは山々なのですが、生憎お上よりお召しがございましてお訪ね出来ません。今もあの可憐なお顔が脳裏を過ります、心配でなりません。」と、宿直人も一緒に寄越してこられました。「あまりに不実ななさりようではございませんか。仮にお戯れであったにせよ、早くもこんな扱いをなさるとは。兵部卿の宮のお耳に入ったら、側仕えの責任であると詰られることでしょう。姫、どうか呉々もご用心召されませ、何かのついでに源氏の君の御名を間違ってもお口になさいませんように。」などと語気荒く云うのですが、当の姫君は女房たちの思惑をまったく意に介しておられないのが不思議です。

 少納言はまたぞろ惟光に散々愚痴をこぼします、「この先、何年先かは分かりませんが、もし真実逃れ難き前世からの契りがあるのでしたら、そうなることもあるでしょうよ。ただ、今の時点ではどう考えてもご年齢が釣り合いません、それにもかかわらずああまで理解に苦しむお言葉を頂戴いたしますのは、いかなるお心積もりからでしょうか。私どもにはまったく分かりかね、困惑するばかりでございます。今日も今日とてお父上の宮さまがおいでになられ、『姫の気が休まるよう配慮しておくれ。ゆめゆめ粗略にお仕えせぬよう』と念をおされましたよ、ですからこのようなまるで色事のようななさりようが、なんとも頭の痛いことに思われてならないのです。」そう云いつつも、この人までもが姫と源氏の君の間柄を誤解するのではないかと恐れ、殊更大袈裟に訴えることも出来ないのです。惟光も現状を今ひとつ把握出来かねております。

 戻ってまいりました惟光が事の次第をご報告申し上げましたが、お気持ちは動くものの、さすがに通われるとなりますといささか浅ましいようにも思え、軽率で不可解な人だと世間に漏れてしまうのも不本意ですから憚られます、ならばやはりこちらにお迎えするにしくはないと思われるのでした。そんなこんなですからお便りは欠かしません。今日もまた日が暮れたあたりで惟光をお遣わしになられます。「何かと障りがありまして、お伺い出来ずにおりますが、疎かにしていると思われますか。」などと書かれてあります。少納言が「兵部卿の宮より急に明日お迎えに来られる旨のお知らせがございました。ですので、只今取り込んでおります。長年住み慣れております蓬生の宿を離れることになりますが、やはり淋しさはあり、私どもも心が落ち着きません。」とだけ言葉少なに云い、おざなりにあしらい、縫い物やなにやかやと忙しそうな気配ですので、惟光もただ言葉だけを承って帰ってきました。


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