
源氏の君は左大臣邸におられますが、例によって女君はすぐにお出ましにはなりません。鬱陶しいなと若干ふて腐れ気味に、和琴を爪弾きながら、「常陸には田をこそ作れ」という風俗歌を色っぽい声音で口ずさんで憂さを晴らしておいでです。そこへ惟光が戻ってまいりましたので、近くに呼んで首尾を問われます。かくかくしかじかとご報告申し上げますと、遺憾に思われ、このまま父兵部卿宮の所に移ってしまえばわざわざ迎えに行って連れ出すのもいかにも好き者めいてしまう、しかも年端もゆかぬ幼い子を拉致したとの謗りも免れまい、どうせならその前にしばらくの間周りに箝口令を敷いてこちらに渡してもらおうとお考えになり、「夜明け前にあちらへ出向こう。車の飾りはそのままでよい、随身を一人二人控えさせておくように。」とご命じになられます。惟光は承って立ち去りました。
さてどうしたものか、と源氏の君は思案されます、どのみち話が洩れて好き者の噂が立つのは致し方ないにせよ、少なくとも分別のつくお歳であったら、女の側も承知の上の事と見なされるのは世の常ではあるが、それでも父兵部卿宮に探し廻られるのはいかにも体裁が悪い、等々あれこれと考えあぐねておられます、ただ、今この好機を逃したら後々きっと後悔するであろうと心を決め、まだ真夜中のうちに出掛けようとされました。例の如く女君は渋いお顔で素っ気なくなさっておられます。「実家の二条院で早急に片付けねばならない用があるのを思い出しました。すぐに戻ってきますよ。」と云い残されて出掛けられましたので、女房たちの誰も気がつきませんでした。ご自身の控室で直衣他をお召しになられます。惟光一人だけを騎乗させてお連れになりました。
到着され、門を軽く敲かせますと、事情に通じていない者が門を開けましたので、そのまま御車を引き入れさせ、大夫惟光が妻戸を鳴らして咳払いしましたところ、察したのでしょう少納言がすっと姿を現しました。「こちらにおいでになられております。」と云いましたら、「幼い姫はお眠りになられております。またどうしてこんな夜中に……。」と何処ぞへの道すがらに立ち寄られたと思っているようです。「兵部卿宮邸にお移りになられるとか、その前にどうしてもお伝えいたしたいことがあるのです。」と源氏の君が仰いますので、「一体何事でございましょう。さぞや気の利いたお返事が出来ますでしょう。」と云って薄笑いを浮かべております。
源氏の君が意に介されず入ってこられますので、狼狽えた少納言は「むさ苦しい年寄り達が寝こけておりますので……。」と申し上げます。「まだお目覚めにならないようですね。さて、起こして差し上げましょうか。こんな素晴らしい朝霧を見ないなんてもったいない。」そう仰って御簾の内に入ってこられますが、誰一人として『これ』と感付く者はおりません。屈託のない寝顔を見せておられます姫君を抱き起こされましたので、驚いて目を覚まされましたものの、ぼんやりしたお頭で父宮がお迎えにいらっしゃったものとばかり思われておいでのようです。源氏の君が御髪をやさしく撫で整えられ、「さ、お出掛けです。兵部卿宮の遣いとしてまいりましたよ。」と仰った途端、父宮でなかったと覚られ、おののいておられますが、「心外ですね。私も宮も同じ人ですよ。」と抱き上げられ出られようとなさいますので、惟光も少納言も呆気にとられ、「どうなさるおつもりで……。」と申し上げるのがやっとです。
「ここにいらっしゃると、しょっちゅうお邪魔することも出来ませんのがどうしても気になりますので、心休まる家へお迎えしようと云っておりましたのに、無情にもあちらへ行かれてしまわれては更にこちらへお誘いしにくくなります。ともあれ誰か一人一緒についてきなさい。」と申されます、少納言は動揺し、「今日に限りましては何卒ご勘弁ください。兵部卿宮がおいでになられた際に申し上げようがございません。この先自然と時が経ち結ばれる運命でございましたなら、いかようなりともなりましょうが、将来のことなぞまだ思いも及ばぬご年齢では、お付きの者達が苦しむだけでございます。」そう懇願いたしますと、「よしわかった。ならば後から来ればよい。」と云い放たれて御車を寄せさせられますので、侍女たちは、なんということ、どうなってしまわれるのか、としきりに囁き合っております。不穏な空気を察知した姫君は泣き出されました。少納言は、こうなってはお止め立ても叶わぬと腹をくくり、昨晩縫っていた衣装をあわただしく身に纏い車に乗り込みました。
二条院はお近くですので、まださほど明るくならないうちに到着され、西の対のお屋敷に御車を寄せられ降りられました。姫君をいとも軽々と抱き上げられ降ろされます。少納言は「まだ夢の中にいるようでございます。私はどうすればよろしいのでしょうか……。」と云って車より降りかねております、「それはあなたの心次第ですねぇ。ご本人がこうして移られた以上、帰りたいと云うのでしたら送ってあげますよ。」そう申されますので、苦笑いしながら車を降りるより仕方ありません。あまりの急な成り行きに、唖然とするばかりで、動悸が収まりません。兵部卿宮がなんと思われるか、姫様がこの先どうなってゆかれるのか、とにもかくにも幼くして後ろ楯を喪くされたことが何よりのご不運……、と思い巡らしているうちに泣けてきそうになりましたが、こんな時に涙は禁物と懸命に堪えております。
こちらの西の対は日頃住まわれておられないお屋敷ですから、御帳などもありません。惟光を呼び、御帳や屏風その他をあの辺りこの辺りと指示されて設えさせます。御几帳は垂れ布を降ろせばよいだけで、御座所も少し手を加えるだけでいいいようになっておりましたので、東の対より寝具を持って来させてお床に就かれました。姫君は不気味でたまらず、どうなさるお積もりなのかとお身体を震わせておられますが、さすがに声をあげて泣かれるのは我慢しておいでです。「少納言の隣で眠りたい。」と申されるお声がなんとも子供っぽく響きます。「これからはもうそうやってお寝みになるのは止しましょうね。」そう優しく諭して差し上げますと、いたく戸惑われ泣きながら臥してしまわれました。乳母の少納言はまんじりともせず、呆然としたまま起きておりました。
やがて夜が明けてゆくにしたがい周囲に目をやりますと、御殿の造作、設えの数々の素晴らしさは云わずもがな、お庭の砂利までもがさながら玉を敷き詰めたかのごとく煌めいております、少納言は眩しさに当てられる心地がいたしますので、どこかしら居心地の悪さが拭えませんが、どうやらこちらの西の対にはお仕えする女房たちもいないようです。西の対は気の置ける客人がいらっしゃった時に用いるお屋敷ですから、見張り番の男達が御簾の外にいるだけです、こんな風に何方かを迎え入れた事を小耳に挟んだ者は、「一体誰だろう。そんじょそこらの方ではないだろうな。」などとひそひそ噂し合っております。
源氏の君は御手水、朝粥ともにこちらの対で済ませられました。すっかり陽が高くなってから起きてこられ、「侍女がいないので何かと不便ですよね。夕方になったら迎えにやってこちらに来てもらうといいでしょう。」そう仰って、東の対より女童を呼び寄せられました。「小さい子は全員こっちに移ってきなさい」との仰せですので、すこぶる可愛い女の子が四人やって参りました。姫君は御衣にくるまって眠っておられましたが、強いて起こしておやりになり、「そんなに気落ちしてばかりではいけませんよ。上っ面だけの男がここまで親身にお世話いたしますでしょうか。女というものはいつも心穏やかにしているのが一番です。」と早速教え込んでおられます。改めて間近で拝見しますと、遠目で見ていた時より遥かにお美しく、心をこめてお話なぞなされ、ご興味を引きそうな絵や、玩具等を取って来させてお見せしたりと、なにくれとなくお心に添うようなことをして差し上げます。やっとのことで起き上がってこられ、あれこれとご覧になっておられます、尼君の喪中ゆえ濃い鈍色の衣装の萎えたのを重ね着されておられ、屈託なく笑っておられる愛くるしいお姿に、源氏の君もつい笑みがこぼれてしまわれます。