
お戻りになられた源氏の君は何をおいてもまず真っ先に宮中に出仕され、ここしばらくの経緯をご報告申し上げます。お上は「ずいぶん窶れて……。」と仰って、ただ事ではないとおののかれておられます。聖がいかに尊かったかについてお訊ねになられます。源氏の君がつまびらかにご説明申し上げましたところ、「阿闍梨になってもなんらおかしくはない者だね。そこまでの行を修めながら、世に聞こえないとはなんと奇特な事よ」と不憫に思し召されました。
左大臣が合わせて参上され、「お迎えに上がろうかとも存じましたが、なにぶんにもご内密のうちにお出掛けになられましたので、如何なものかと敢えて控えました。どうか一日もしくは二日のんびりとお身体をお休めになられてくださいね。」と申されて「今日はこのまま私がお送りいたします。」ご提案されましたので、あまり気乗りなさっておられないようでしたが、お言葉につられて退出されました。左大臣は先に源氏の君をご自身の御車に乗せて差し上げ、ご自分は後方のお席に着かれました。左大臣が下にも置かぬほど丁重に扱ってくださるお気持ちを、さすがの源氏の君も申し訳なく思われておいでです。
御殿でも、今頃こちらに向かわれておられるであろうと心を砕き、すっかり間遠になられている間も、隅々まで玉のうてなさながらに入念に磨き上げ、準備万端整えてお越しをお待ち申し上げております。女君はと申しますといつもの如く奧の奥に身を潜められて、すぐに出てはいらっしゃいません、左大臣がやいのやいのと申されまして、ようようお渡りになられました。それでもただ絵に描かれた姫君のように据えられて座らされ、わずかばかりも動きようがないお姿勢で、ひたすらお行儀よくされておられるだけです、源氏の君は日頃から感じておられることなどをさらっと洩らされたり、先日の山歩きのお話をなさろうかとも思われるのですが、打てば響くようなお返事やご反応があれば情も湧くところ、まったく心を開かれずきっと私のことを他人行儀で気が置ける人だと思われておられるのだろうと、年を重ねるにつれ心の壁は頑なになるばかりなのを、いたく苦痛に感じられ、落胆されて「たまには世の常の夫婦のようなお振る舞いも見せていただきたいものです。しばらく重い病で臥せっておりましたが、その後お加減は如何ですかのひと言もございませんのが、相変わらずとは申せやはり情けない気持ちになります。」と愚痴をこぼされました。そこまで仰ってようやく「お訊ねしないのはそれほど不人情なことでしょうか……。」そうちらと目だけで後ろを向かれる眼差しとお顔には、こちらが恥じ入るばかりの気品と美しさが備わっておられます。「ごく稀に何か仰るかと思えば、また途方もないことを!「問わぬ」云々のお言葉は私たちには似つかわしくありませんよ。なんとも滅入るようなことを仰るものです。いつまで経ってもよそよそしいそのお振る舞いをいつかは省みられ直していただける時も来るだろうと、あれこれと試み申してまいりましたが、この分では直すどころかますます私を疎んじるようにおなりのようですね。もうどうぞお好きに。」そう云い放たれ御寝所に入られました。
女君はすぐには入って来られません。源氏の君はお掛けするお言葉にも窮されて、溜め息まじりに臥しておられましたものの、どうにももやもやが晴れませんのか、いかにも眠そうにあしらわれ、その間あれこれと男と女の間柄について思い巡らされますがいつまでもお考えがまとまりません。
あの若草がこの先どこまで綺麗になるのかが気になって仕方がないが、男女の仲となるには早過ぎると思うのも当然と云えば当然、云い寄るにはさすがに無理があろう、当面どうにか策を講じてすんなりこちらに迎え入れ日々の慰めに眺めていたいものと強く思われます、父君の兵部卿宮はいかにも貴なる方で雅やかでいらっしゃるけれど、うっとりするほどの美しさは残念ながらおありにならない、なのにああまであの一族に似ておられるのか、やはり同じ妃腹の御出自だからかしらん、などと思い巡らされます。血縁からもいたく親しみを覚えられ、とにもかくにも何とかして手に入れたいと切望なさるのでした。
その翌日、改めてお便りをお遣わしになります。僧都宛にもおそらくほのめかされたのではないでしょうか。尼君に対しては、
取り合っていただけないご様子に気が引けまして、秘めた想いをお伝えし切れずにおりました。ここまで申し上げますのも、私なりの相当な覚悟あってのこと、お察しいただけましたならこれにまさる喜びはございません。
などと認められております。さらに内には恋文仕様に結ばれて、
山桜の面影が肌身に染みつき離れそうにありません、心はすべてそちらに置いてきたのですが
夜風に拐われてしまうのではと気が気ではありません、とあります。麗しい筆跡は云うに及ばず、さりげなく包まれたお手紙の仕様に、女盛りを過ぎた目には痛いほど眩しく好ましく映ります。まぁなんと気恥ずかしい、どうお返し申し上げればよろしいやら……、と身悶えするほど悩まれておいでです。
「ほんの行きずりのお言葉と受け取っておりましたので受け流すのが妥当と思っておりましたところ、このようなお手紙をわざわざお届けくださいましたことに、お返事のしようもございません。未だ難波津の手習い歌さえ満足に書き続けられない有り様ですので、押して知るべしでございましょう。それにつけましても、
嵐が吹く峰の山桜がほんの一時咲いておりましたのを、たまたま目に留められただけなのですね
まことに気がかりでございます。」とありました。
僧都からのお返しもほぼ同様でしたので、遺憾に思われて、二三日後に惟光を使者にお遣わしになります。「少納言の乳母という女がいるはず。その女を呼び出して事細かに打ち合わせてきてくれ。」と説きつけられました。相変わらず天晴れなぶれないお心をお持ちだ、あんないたいけな子供を、と惟光はあの折にちらっと見ただけの姿を思い浮かべにやにやしております。
それでも殊更懇ろなお手紙でしたので、僧都も恐縮しきりで丁重にお返し申し上げます。惟光は少納言の乳母を突き止め直談判に及びました。源氏の君の想いの丈を出来る限り詳しく、日々のお姿も交えて語りに語ります。もとより口数の多い人ですから、いかにももっともらしく聞こえるように喋りはしますが、なんと云いましても埋めようのないご年齢差をどう思われておいでなのか、誰もが皆ただならぬ事と感じております。託されたお手紙にはいたく心の籠った書き様で、いつものように内に恋人仕様に結ばれて、「お聞きした手習いの文字、是非とも見せていただきたいものです。」と認められた後に、
あさか山とは云うものの決して浅くは想っておりませんのに、山の井に映る姿のように遠く感じられます
そのお返しに尼君が、
山の井は汲めば後悔するほど浅いと聞きます、浅いお心のまま姿を見ると仰るのですか
惟光がそっくりそのままお伝え申し上げます。「今は病を得ておりますが快復いたしました暁には、しばらくして京の家に戻りますので、改めてお便りいたします。」と書かれてありますのに、源氏の君は気を揉んでおられます。