源氏物語 現代語訳 若紫その8


 秋も終わりの頃になりますと、心細さが一層募られついため息ばかりついておられます。そんな趣ある月の夜、やっとのことでさる方のところへ忍んでゆく気を興されたものの、折悪しく時雨のようなものが降っておりました。おいでになられる先は六条京極の辺で、宮中から向かわれたため若干遠くも感じられたようですが、途中荒れた家にずいぶんと年古りて鬱蒼とした木立がありました。例の常にお供の選から洩れたことのない惟光が、「こちらが故按察大納言の御宅でございます。いつでしたかもののついでに訪れましたところ、あの尼君がすっかり弱りきっておられ、どうしたらいいのか困り果てておりますと誰ぞが申しておりました。」と申し上げますと、「お気の毒なことよ。お見舞いいたせばよかったのに。なぜ私にひと言知らせてくれなかったのだ。今すぐ行って御様子を教えてくれ。」そう仰いますので、まず人を入れて案内させました。

 案内にわざわざお立ち寄りになったと云わせましたので、中へ入り、「今そこにお見舞いにいらっしゃっておられます」と告げますと、側仕えの女房は気が動転し、「どういたしましょう!ここ数日というもの、めっきり弱ってしまわれて……、ご対面はとうてい無理かと……。」と口ごもりながらも、このままお返しいたしますのもあまりに非礼で畏れ多く……、などと云い繕って、取り急ぎ南側の庇を引き上げて急拵えの御座所を設けてお通しいたしました。

「お目汚しでございますけれど、せめてお礼だけでもと……。あまりに突然のお越しでございましたので、かようにお粗末な御座所でございますが……。」としどろもどろで申し上げます。確かにいつもと勝手が違うと面喰らわれておられます。「来よう来ようと思いながら、はかばかしいお返事がいただけないまま気後れいたしておりました。お加減がこれほどお悪いのを一向に存じませんでしたのでいたく心配です。」などと仰られます。「具合のよくないのにはすっかり慣れてしまいましたが、この期に及んでありがたくもお見舞いを頂戴したにもかかわらず、ご対面出来かねるのが心残りでございます。仰せになっておられた御趣旨、この先たまさかにもお気持ちが変わられないようでしたら、それ相応の歳になりました暁には、数の内に入れてくださいますようお願い申し上げます。私くらいしか頼れる者とていないあの姫を一人残してゆきますのは、往生への道の差し障りとなると思われても致し方ございません。」等々申し上げ訴えられます。

 尼君のすぐ近くにおりますので、か細い声が途切れ途切れに聞こえてきます、「なんともありがたいお越しお言葉でございます。せめてこの姫だけでもきちんとお礼を述べられる歳でありましたら……。」と申されております。源氏の君はいたく心を痛められ、「どうして軽い気持ちでわざわざ色好みめいた素振りを見せたりいたしましょう。いかなる前世の契りか、初めてお姿を目にした時からこんなにも惹かれてしまうのか、奇妙なまでにこの世だけのご縁とは思えないのです。」などと仰られます。「肩透かしのような想いばかりいたしております、あの愛くるしいお声をせめてひと声だけでも聞かせていただけませんでしょうか。」そう申されますが、「さぁ……、どうでございましょう、何ひとつご存じないお顔でお眠りになられておいでですから……。」と申し上げましたまさにその時、向こうからやって来る足音が聞こえ、「お祖母様!この間、山のお寺におられた源氏の君がいらっしゃっておられるのではありませんか。どうしてお逢いにならないんですか。」と仰います、女房たちはあまりにばつが悪く、「お静かに!」とたしなめております。「だってね、お顔を拝見したらすっかり具合がよくなったわと仰っておられたのよ!」といかにもいい事を云ったとばかりに申されました。源氏の君は微笑ましいお気持ちになられましたが、周りがさぞや困るだろうと聞かなかったふりをなさりながら、懇ろに御見舞いのお言葉をかけられお帰りになりました。いやはやまだまだ子供なんだなぁ、でもいっそ教育のし甲斐があるというものだ、と思われておいでです。翌日も、まことに心細やかなお見舞いのお便りをお遣わしになられます。例の如く、内に小さく恋人仕様に結んだ文を忍ばせて、

雛鶴の声をひと声聞いてからというもの、我が身を葦間で往生している舟にたとえております。

同じ人に対してですね。

と、ことさら幼い風にお書きになっておられますが、それがまたたいそう麗しい筆致で、これならばそのまま手習いのお手本になりますわ、と女房たちが感心いたしております。お返事は少納言が認めます。「お見舞いを頂戴いたしました本人は、今日も一日を過ごすことすらままならぬ有り様でして、ちょうどこれからまた山寺に籠りに参るところでございます。このようなありがたいお見舞いへのお礼は、おそらくあの世より申し上げることになりましょう。」とこんなことが書かれてありました。源氏の君はなんとも痛わしく思われます。

 秋の夕べですので、心の休まる暇もなく、ひたすら恋い焦がれておられるあのお方のことばかりお考えになられた挙げ句、ささやかな血縁でよいので訪ねてみたいというお気もちが抑えきれなくなられたのでしょう。あの折尼君が「消えん空なき」と詠まれた夕暮れ時を思い出されて、恋しくなられると同時に、見劣りせねばよいが……、と危惧されるのでした。

いつかこの手に摘んで見ることが出来るであろうか、あの根続きの野辺の若草を。

 十月になりましたら朱雀院の行幸が予定されております。舞人役の高貴なお家のお子様たちをかわきりに、上達部、殿上人たちの中からもその道に秀でた者は余さずご選出なさいますので、親王の方々、大臣をはじめとする者たちは、ひたすら各々の得意な技芸の練習に余念がありません。
 山里に移られた尼君にも、すっかりご無沙汰してしまっていることをふと思い出されて、ご丁寧にもお便りを遣わされますと、僧都からの返信だけがありました。「先月の二十日頃にとうとうお亡くなりになられました。世の理とは申せ、悲しみに沈んでおります。」そう書かれておりますのを目にされ、なんとこの世は儚いものよと胸が痛まれて、それにつけても亡き尼君が心配でならないと仰っておられたあの幼い姫は今頃どうしておいでだろう、定めしお祖母様を恋い慕われているに相違ない、とご自身が母御息所を亡くされた折のことが朧気ながらに思い出されて、きわめて懇ろにお弔いのお手紙を差し上げたのでした。少納言よりさすがの礼節をわきまえたお返事が参ります。


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