源氏物語 現代語訳 若紫その9


 やがて喪が明け京に戻られたことを耳にされ、ほどなくして自らお手すきの折に訪れて差し上げます。凄まじく荒れたお屋敷で、なにぶんにも人もほんのわずかしかおりませんから、あの幼い姫がさぞかし怖がっておられるにちがいないとお察しになります。以前と同じお部屋に通され、少納言が泣きながらご臨終のご様子などを申し上げております際にも、知らず知らずのうちにお袖を濡らされておられました。

「お父様の兵部卿宮に幼い姫をお届けしようかというお話もございましたが、亡き姫君がそれは出来れば避けたい辛いことになるからと仰っておられましたし、そこまで幼いというわけでもなく、だからと云って社交がうまくこなせるという年頃でもない、どっち付かずのご年齢ですから、宮のお子様たちに交じられたら軽く見られてしまうことでしょう、とお亡くなりになった尼君も生前常々申されておられました。ご心配になられた通りのことが多々ございましたので、そのようなありがたいお言葉を頂戴いたしますと、後々のお気持ちはさておくにしても、ただひたすら感謝申し上げております次第でございますが、なにせお歳はもちろんお釣り合いを考えますと相応しいと思えます所が見当たりません、何よりお歳のわりにいたって幼くいらっしゃいますから、どうしても気が引けてしまうのでございます。」と涙ながらに申し上げます。

「どうしてまた、こうまで繰り返し繰り返しお伝えしておりますこの心映えを遠慮なぞなさるのですか。云う甲斐がないと思われるほど無垢なお心が、こうも愛しくてたまらないと思うのも、前世の契りがことのほか深かったからなのだとある時思い当たったのです。まだお取り次ぎが必要ですか、直接申し上げるわけにはまいりませんか。

葦の若草の生える浦には海藻は育ち難いかもしれませんが、寄せては返す波ではありませんよ私は

このままでは帰れません。」と仰います、「なんと畏れ多いことでございます、と

寄せる波の心も知らずに、和歌の浦の藻は靡くこともなくただ漂っております

そう仰られても……」そう申し上げる場馴れした振る舞いに、これまでの罪を多少お許しになられます。「越えてみせよう」と口ずさまれますと、年若い女房たちはしみじみと胸打たれております。
 
 当の姫はお祖母様を恋い慕われ、泣きながら臥しておられましたが、遊び相手の童たちが「直衣をお召しの方がいらっしゃってますよ。兵部卿の宮がおいでになったのでは。」とお伝えいたしますと、やおら起き上がられて出てこられ、「ねぇねぇ少納言、直衣をお召しの方はどこにおられるの。ひょっとしてお父様がおいでになられたの。」そうはしゃいで近寄ってこられるお声の可愛さといったらありません。「残念ながら宮ではありませんが、避けられずともよい者ですよ。こちらへいらっしゃい。」と源氏の君が申された途端、あのご立派な方だったのねとお察しになり、やっちゃったと臍を噛まれ、乳母に寄り添い「あっちに行きましょうよ。眠いんだもの。」と仰います、「この期に及んでお隠れにならずともよろしいではありませんか。さ、この膝でお眠りなさい。もっとこっちに。」と仰いましたら、乳母が「お察しの通り、まだ右も左もお分かりにならないお年頃なのでございます。」と申し上げては源氏の君の方へお寄せしようといたしましても、無邪気にお座りになっておられますので、几帳より手を差し出して探られますと、柔らかなお召し物に艶々としたお髪がかかり、やがてふさふさと豊かな裾が御手に触れ、それだけでいかにお美しいかがはっきりとお分かりになられます。

 続いて手を掴まれますと、何となくよく知らない人がこんなにも近くにいらっしゃることに恐れをなしてしまわれて、「寝ようと云ってるのに」と強く手を引っ込めてしまわれました、すかさず源氏の君が御簾の中へ入ってこられ、「今日から私が貴女の想い人となります。疎んじてはなりませんよ。」と仰いました。「あらまぁどういたしましょう。とんでもないことでございます。そのようなことを仰られても姫様はとんとお分かりになりませんのに……。」と乳母が狼狽えますと、「仮にそうだとしても、このようないたいけな子をどうこうするはずもないではないか。それより何より私のこの稀有な志を受けとめていただきたいのだ。」とそう仰います。

 折しも霰が降りしきる夜となりました。「こんなにもわずかな人しかいないのでは、さぞ心細くて夜もおちおちお過ごしになれまい。」と涙を零され、とうていこのままにしておきかね、「早く御格子を下ろしてしまいなさい。こんな不気味な夜ですから、私が宿直を勤めます。ほら、皆の者、こちらに寄っておいでなさい。」そう仰いながらすっかり打ち解けられて几帳の内に入ってこられますので、意外に大胆なことをなさると一同あっけにとられ呆れている様子です。乳母は気もそぞろで困り果てていますが、かと云って大声で騒ぎ立てるのも憚られて身動きが取れず、出るのはため息ばかりです。幼い姫君も非道く怖がられ、どうなってしまうの……と怯えわなないてておいでです、すべらかな美しいお肌にもざわざわと悪寒が走っておられ、源氏の君は愛しさが募り、そっと単をお着せし、くるんで差し上げます、さすがにご自身一寸やり過ぎかとも思われましたが、いたって親身に会話を交わされて、「ね、ぜひいらっしゃい。お気に召していただけそうな絵が沢山ありますし、雛遊びもするような家ですから。」と姫君が気乗りなされそうなお話を一所懸命されておられるお姿がとても好ましく思え、子供心にももうさほど怖がりもせず、とは云うもののさすがに安らぐほどでもなくてなかなか寝つかれずに、もぞもぞとなさりながら臥しておられます。

 夜を徹して強風が吹き荒れておりますので、「ほんとにもういらっしゃっていただけなかったら、どれ程心細かったことでしょう。これでお年頃が似つかわしかったらどんなにか……。」とこっそり囁き合っております。ただ乳母だけは心配ですから油断せず、傍らに控えております。風がわずかばかり弱まったのを潮に、まだ夜更けにもかかわらずお帰りになろうとなさるのが、何とはなしに訳あり顔にも見受けられます。「あんなにあどけないお顔を拝見してしまいましたら、もう片時もおちおち待ってはいられません。私が暇を持て余している家へお迎えいたしますよ。こうも寂しいところでいつまでもこんな風に暮らしておられるのは如何なものでしょう。よくぞ怖がりもせずお過ごしになられたものです。」と仰いますと、「お父上の兵部卿の宮もお迎えにいらっしゃるとか仰っておられたようですが、おそらく四十九日を過ぎてからになるかと存じます。」と申し上げます、「宮でしたら確かに頼るべき筋合いでしょうけれど、ずっと離れて暮らされておいでなのですから、親しみ度合いは私とどっこいどっこいいですよ。私はついさっき親しくなったばかりですが、姫君を想う気持ちの真剣さは宮に間違いなく勝っていると自負しております。」そう熱をこめて仰りながら、姫のお髪をいとおしそうに撫でさすっては振り返り振り返りなさりながらお帰りになられました。


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