
その日は十月の亥の日でしたので、夜になり亥の子餅をご用意します。生憎の喪中ですから、あまり仰々しくせず、姫君にだけ洒落た檜破籠などにとりどりの工夫をこらして収めお持ちするのをご覧になり、源氏の君は南面に出られて惟光をお召しになります、「この亥の子餅だが、こんな風に所狭く並べ立てずに明日の日暮れ時に持ってまいれ。今日は縁起のいい日じゃないからね。」とにやりと笑われて申し付けられるご様子に、惟光は頭の廻る男ですからすぐさまぴんと来ました。「ですね、睦み初めのお祝いはよき日を撰ばねばなりません。で、亥の子餅はおいくつご準備すればよろしいでしょうか。」としかつめらしくお訊きしますと、「この三分の一で充分じゃないかな。」と申されますので、直ちに承知し立ち去りました。物分かりのいい奴め、と源氏の君はご満悦です。惟光は誰にも洩らさず、自ら手を下さんばかりの熱の入れようで、自宅にてお作りいたしました。
源氏の君は姫君のご機嫌を取るのに難渋され、さながら今拐ってきたばかりといった気になるのも、それはそれでたいそう愉快で、もう何年もひたすら可愛い可愛いと思ってきたが、今の気分と比べたら物の数ではなかった、まったく人の心くらい勝手気ままなものはないなぁ、今となっては一夜でも空いた日にはどうにかなりそうだもの、としみじみ感慨に耽られておられます。
ご命じになられた亥の子餅は、人目につかぬよう夜もすっかり更けてから惟光がお持ちいたしました。少納言はなにせ年増ですから、姫君も恥ずかしがるだろうと、十二分に配慮して機転を利かし、少納言の娘の弁という若女房を呼び出し、「これをこっそり姫君に」と云って香壺の箱をひとつ御簾の内へと滑らせました。「こちらは御枕上に置くべき紛う方ないお祝いの品ですからね。間違ってもないがしろにされませんよう。」そう云いますと、弁は訝しみつつ、「浮気な恋心なんてまだ一向に存じません。」と云いながら受け取ります、「おっといけません、今はその言葉だけは慎んでくださいね、姫の前で遣われることはないでしょうけど。」と釘を刺します。弁はなにしろ年若い未熟者ですから、何がなにやらちんぷんかんぷんで理解出来ないようです、とりあえず姫君の許にお持ちして、御枕元の御几帳の内に差し入れましたので、後程源氏の君がいつものようにいい風にお話して差し上げることでしょう。
誰一人知る由もありませんが、翌朝になり姫君がこの箱をお下げになりましたので、ごく身近でお仕えする女房たちだけは、合点のゆくことがありました。お皿など、いつの間に用意したのか、華足も優美な台に、特別仕立ての亥の子餅が、いかにも典雅に盛られておりました。少納言は、よもやここまでの扱いはしてくださらないだろう、と思っておりましたので、畏れ多くも忝なく、隅々まで行き届いたそのお心遣いに、なにはさておき涙いたします。他の女房たちは、「それならそうと、内輪の者たちだけには教えてくださればよろしいのに。あの人は何を考えていたのかしら。」とぶつくさ云っております。
その後は、宮中へも桐壺院の所へも、ほんの一寸お伺いしている間でさえ、浮足だって恋しいお顔が脳裏にちらつき、我ながらどうしたことかと怪訝に思われておられます。以前より通われておられるあちらこちらからは、恨みがましい文が届いたりいたしますが、中には申し訳ないと思われる方もいらっしゃるにはいらっしゃいますけれど、新妻への想いは格別で、一夜たりとも離れてはいられないと気もそぞろですから、さも思い悩んでおられる呈を装われ、「この世をすっかり儚んで日々暮らしております、いつかまたお逢い出来ればよいのですが……。」とそんなお返事だけで済まされておいでです。
今妃こと弘徽殿女御は、御匣殿こと朧月夜の君が源氏の君に夢中なのを、「それならそれでよいではないか、あんなに下にも置かぬ大切な方を喪くされたのだから、仮にそうなったとしても嘆くようなことではないだろう。」などと父右大臣が仰るのを耳にされるにつけ、源氏の君への憎悪をいっそう募らせ、宮仕えでそれ相応のお立場になられるのであれば、断然そちらの方がよいでしょう、と熱心に入内を促されます。当の源氏の君も、朧月夜の君にはひときわご執心でしたので、残念とは思われますものの、今や他の方に目移りされるようなご心境ではなく、そんなことをしたところで何になろう、かくも短い現世なのだから、精一杯この妻だけを大切にしよう、もう女人の恨みを買うのは止めにしよう、といつぞやの出来事にいたく恐怖を覚えられ懲り懲りと思われておられます。
確かにあの御息所はお気の毒ではあるけれど、本妻として遇し頼りにすれば、きっと気詰まりなことになるに違いない、これまでのような間柄で許していただけるのなら、その都度その都度話を聞いていただく相手としてお付き合いしてゆければ……、などと他の方々のようにはすっぱり切ることも出来かねておられるようです。
二条院の姫君につきましては、今まで何方もいかなる素性の方か存じ上げておりませんでしたので、それもさすがに体裁がよろしくありません、そこでまずは父兵部卿宮にお知らせせねばと思い立たれ、御裳着の事を、大々的に披露はなさいませんが、並大抵ではないお支度を入念になさいますのはきわめて異例と申せましょう、ただ肝心の姫君が依然としてご機嫌斜めのままで、もう何年もご信頼申し上げ、無邪気にまとわりついていたのがそもそもの過ちであったとひたすら悔やんでおられ、お顔すら合わせられず、源氏の君のご冗談も、聞きたくない鬱陶しいと感じられるだけで、かつてとはうって変わった態度なのをむしろ面白がりいとおしく思われて、「長年大切に思ってまいりましたこの本心も解っていただけず、打ち解けて親しくしてくださらないのが残念でなりません。」と恨み言を仰られているうちに新年を迎えました。
元旦には、いつものようにまず桐壺院の許にお伺いし、続いて宮中、東宮にご挨拶申し上げます。その後、左大臣邸に向かわれました。左大臣は新年のお祝いもあらばこそ、昔話ばかりなさっておられます、依然として淋しく悲しみを持て余しておられたところへ、更に源氏の君がいらっしゃったことでお嘆きの度合いが増し耐え難く思われます。ひとつお歳を召されたからでしょうか、源氏の君は風格すら漂わせ、かつて以上に麗しくお見受いたします。立ち上がられ左大臣の御前を退出なさいまして、亡き北の方のお部屋へと入られますと、女房たちも滅多にないことと感激に目が潤んでおります。若君のお顔を拝見いたしましたところ、すっかり成長なさっておられ、無邪気に笑っておられるお姿が哀れを誘います。眼差し、お口許がまさしく東宮と瓜二つで、これなら誰が目にも歴然であろうと思われました。丁度類は北の方ご存命の頃のままで、衣桁の御装束など、例の如く掛けられておりますのに、女君のものだけがないのは、なんとも見栄えがせず寂しい感じがいたします。
義母大宮からご伝言があり、「元旦だけはと涙を懸命に堪えておりましたが、こうしてお越しくだされてそれも……。」などと仰って、「例年通り誂えておきましたご衣裳でございますが、このところ涙の乾く間もありませんので目が曇り、色合いなどお眼鏡に叶わぬやもしれませんが、どうぞ今日ばかりはお召しになられてくださいませ。」と、お心の籠ったお召し物の数々をまた幾重もお贈りになられます。必ず本日お召しになられてくださいとのお心が伝わる御下襲は、色、織り共に尋常のものとは明らかに一線を画する上等なもので、そのお気持ちを無駄にせぬよう早速お着替えになられました。今日ご挨拶に伺わなかったなら、どれほど気落ちされたことかと今更ながら恐縮されておられます。お礼として、
「春の到来をまずは感じていただければとお邪魔いたしましたが、想い出が駆け巡り、ご挨拶もままなりません。
何年もの間元旦に着替えておりました華麗な装束を、今日もまた身に纏い涙ながらに昔を偲んでおります
どうにも堪え切れません。」
と申し上げました。大宮のお返事は、
年も改まりましたのに、ふる物と云えば老人の古びた涙ばかりですよ
生易しい悲しみであろうはずもないのでございます。
●編集後記●
〇葵上
光源氏の正妻。出産して初めて光源氏と仲睦まじくなるが、生霊に憑かれて命を落とす。〇六条御息所
光源氏の古くからの愛人で、葵上とは血の繋がらない叔母にあたる。正妻(葵上)の懐妊・出産を恨み、図らずも生霊となって葵上を苦しめる。〇若紫
半ば強引に連れてこられた養女。光源氏と契りを交わすこととなる。この章は見どころが盛り沢山ですね!
正妻が懐妊・出産、そして死別。しかも愛人の生霊に憑かれて殺されるなんて衝撃的な展開。
そしてとうとう、あの若紫とも結婚。
その間にある葵上と六条御息所の車争いもなかなかの見どころです。ちなみに店主の当て読みでは、六条御息所は宮沢りえさんで、葵の上が後藤久美子さん。
バチバチにやりあうお二方の姿、かなり見応えがありそうですね。