源氏物語 現代語訳 葵その4


 その頃、左大臣邸では御物の怪がとめどなく現れ、北の方の苦しみは増すばかりでございました。この御生き霊が、亡きお父上の大臣の霊だと名乗っているとの噂が御息所のお耳に入り、つらつらと想い巡らされましても、ご自身の恨み辛み嘆きの他に、人の不幸を願うような邪心も持ち合わせてはおらず、ただとことん思い詰めた先、魂がさ迷い出てしまうこともあるそうな、ひょっとしたらそういうこともあるかもしれないと妙に納得されておられます。

 何年もの間あれもこれもと悩み尽くしてきたけれど、ここまで心が粉々になるということはなかった、それがつまらぬ車争いの際に、人から蔑まれ存在すら否定されるかのような仕打ちを受けた御禊の日の後、頭が真っ白になるほど追い詰められた挙げ句、はたとしんとした空間に投げ出されたような気分になった、それからというもの、ほんの少しうたた寝をした際に夢で、あの北の方の姫らしき清らかな人がおられる所へ飛んで行って、そこかしこに引き摺り廻し、現実の自分とはとうてい思えない獣じみた激しい一心が湧き出てきて、荒々しく揺さぶるといった狼藉を働くのを一度ならずご覧になっておられたのでした。

 ああなんて忌まわしい、実際にこの身を捨てて魂があちらに飛んで行ってしまったのかしら……、と現実離れした感覚にとらわれたことが度重なっておられたのです、それほどのことでなくとも、世の中というものは高貴な人達の粗捜しをするのが大好きです、ましてこのようなこととなれば尾ひれをつけて云いふらすまたとない話題、たちまち噂が広まってしまうでしょう、もっとも死んだ後に怨念を残すのはありがちですけれど、それさえも他人事として聞いたら業の深い不気味なこと思われてしまうのに、まだこの世に生き長らえているうちにそんな醜聞が立つのは前世の報いと云うよりほかない、それもこれもすべてあの薄情な方への想いゆえもう金輪際関わるまいと改めて心に期されるのですが、無意識の執着にはいかんともしがたいものがございます。

 斎宮におかれましては、今年宮中の初斎院に入られる予定でしたが、あれこれと差し障りがあり、この秋ようやくお入りになられました。九月になれば野宮に移られる運びとなりますから、その前に二度目の御禊の準備をなさらねばなりません、ですが母君の御息所がひたすら脱け殻のようになって寝込まれておられますので、斎宮にお仕えする者達はゆゆしき事態と受け止めて懸命に加持祈祷諸々を執り行います。

 決して重態というわけではなく、取り立ててどこがお悪いというのでもないまま、しばらく過ごしておられます。大将源氏の君もお見舞いを欠かさないようになさっておられますが、なにぶんにも更に大切なお方のご容態が依然として芳しくありませんから、お心が全く休まらないのでした。

 左大臣邸ではまだ早いとつい気も弛みがちでしたが、にわかに産気づかれなおいっそう苦しまれるようになりましたので、ものものしい加持祈祷をあらゆる手を尽くして行わせますが、例の執念深い物の怪ひとつだけはどうあっても微動だにいたしません。神通力をもって鳴る験者たちも、こんなことは滅多にありませんと手を焼いております。ですがさすがに霊験あらたかな激しい調伏を前にしてついに弱音を吐き、苦悶の表情で泣いて懇願します、「す、少し弱めてはくださらぬか。大将殿にお聞かせいたしたき事ありますゆえ。」と申します。「思った通りね。きっとわけがあるんだわ。」と女房たちが北の方のお近くの几帳脇に源氏の君をご案内いたします。ほとんどご臨終の様相を呈しておられると判断されたのでしょう、云い遺すことがおありであろうと、大臣も母宮もしばしその場を離れられました。その間も、加持の僧侶たちが唱和する法華経のくぐもった声が、この上なく尊く響いております。

 源氏の君が御几帳の帷子を引き上げられご覧になりますと、まことに麗しいお顔ながら、お腹だけが異様に高く膨れ上がって横になられておられます、赤の他人でさえ目にすれば動転してしまうでしょう。ましてや夫君ですから辛く悲しいお気持ちになられるのも当然です。白のお召し物に色合い鮮やかな長い長い黒髪が華やいで、引き結んで脇に添えられております、こういう取り繕わないお姿こそ可愛らしさや色気が備わって胸を打つものがあるとお見受けしました。お手を取られまして、「ずいぶん非道いじゃありませんか。こんなにも私に憂き目をお見せになるなんて。」そうしどろもどろで泣きじゃくられますと、いつもでしたら少々険のある気位の高いまなざしを、いかにも気だるそうに上げられてはじっと見つめられております、そのうち涙がはらはらと零れ落ちるのをご覧になった源氏の君は、いっそう胸に迫るものがおありだったはずです。

 いつまでたっても泣き止まれませんので、心痛のご両親のことを慮っておられるとお考えになられ、同時にこうしてじっと見守られるにつけ永遠の別れを惜しんでおられるのかと感付かれた源氏の君は、「思い詰め過ぎるのは万事お身体に毒ですよ。なに大丈夫ですそこまで悪いわけではないでしょう。何が起ころうともご縁がある限りまたお目にかかれます。左大臣と母宮をご覧なさい、切っても切れない深い縁のある二人はいつか必ずまた巡り逢うのです。そう信じてくださいね。」と慰めのお言葉を掛けられますと、「そうじゃないんです。この身がばらばらになるほど苦しいので、少しの間加持祈祷を加減していただきたいとお願いしたくてお呼びいたしました。こんな風に参上する積もりは毛頭なかったのですが、悩める者の魂はこのように身体をさ迷い出るもののようです。」と親しげな口調で云い、

嘆きのあまり空虚を流離う私の魂を、下前の褄を結んで繋ぎ留めてください

そう口にされる声、気配いずれも北の方のものではありません。一体全体どういうことかとつらつらお考えになられてはたと思い当たられました、他ならぬ御息所その人だったのです。なんとおぞましい、このところ人がなにやかやと陰口を叩いておりますのを、所詮は下衆の戯言、聞くに耐えないと相手にもなさっておられませんでしたが、こうまでまざまざと眼前に見せつけられては、世にはこんな不気味なことがあるのかと怖気を震われました。なんて気色悪いとぞっとされ、「そう仰いますが、まったく何処の何方か分かりかねます。しかと名乗られよ。」ときつく仰いましたところ、たちまち御息所そのものと化しますので、唖然とするどころの騒ぎではありません。側仕えの女房たちの目もありますから、気が気ではございません。

 いささかお声が静まった気配を見計らい、少しお楽になられたのかと、母宮が重湯を持参してお側近くに寄られましたので、女房たちにそっと抱き起こされますと、ややあって御出産なさいました。誰も彼もが喜びに沸き立ちますが、憑坐に移らされた物の怪たちが、無事の出産を妬んでわめき散らしますから、後産のことも気が抜けません。それでもあらん限りの願を神仏に祈った甲斐があったようで、どうやら無事に後産もやり過ごすことが出来ました、天台座主をはじめとする某高僧たちも、汗を拭い拭いしながら得意満面で急ぎ退出しました。

 それはそれは数多くの人々が心を尽くして見守ってきた後ですから誰も緊張がほどけ、今はもうさほど心配もしておりません。加持祈祷等は以前の続きでまた始まりましたが、何はさておき目の前の関心事、滅多にない御子のお世話にかかりっきりで、皆々つい気が弛んでいるのです。桐壺院をはじめとして、親王たちや上達部どもが一人残らず産養の宴をかつてないほどものものしく催し、毎夜毎夜ご覧になり盛り上がっております。無事にお産まれになられその上男子ということで、相応の作法に則り賑々しく執り行われますのはおめでたい限りでございます。

 かの御息所はと申しますと、そのようなご様子を聞かれましても心中は穏やかではありません。ついこの間まで今にも死にそうと聞いていたのに、無事に出産されたのはまたどういうことかと訝しまれております。実に不可解で、自分が自分でなくなったかのような心地を振り返り辿っておられますと、お召し物に悪霊退散の際に焚く芥子の香りが染み着いてるではありませんか、不気味さのあまりすぐさま御泔を持ってこさせてお髪を洗われお召し替えになり消し去ろうとなさいましたが、依然として同じ香りがいたします、自分の身に起こったことでさえこんなにも穢らわしいのに、ましてや世間の口さがなさを思えば、誰にも話すべきことではありませんから、そっと胸の内にしまいこまれ嘆かれておりますうちに、いっそう平常心をなくしてゆかれるのでした。

 一方源氏の君は、お心が少し落ち着かれ、あの折に耳にされた生き霊の驚くべき独白を苦々しく思い出されつつ、一方でずいぶんご無沙汰しておりますのを申し訳なく思われますが、かと云ってまたお近くで拝見しますのもお互にとっていかがなものかと躊躇われております。きっとまた嫌気がさし、あちらにも気の毒な思いをさせてしまうことになろうと諸々慮られ、お手紙だけを遣わされました。


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