源氏物語 現代語訳 葵その5


 一時は危篤に陥っておられた方の出産後はとりわけ用心せねばならず、御一同も油断は禁物と思われておいでです、源氏の君も充分に得心されており、夜歩きも控えていらっしゃいます。未だご病人は苦痛に喘がれておられますので、常日頃のようなご対面は叶いません。若君のお顔が不吉なほど麗しく、すでに今から並大抵ではないご寵愛ぶりを示されておられますのはまったく尋常ではございません、願ったり叶ったりだと左大臣もご満悦で、ただひとつ姫君のご容態が相変わらず芳しくないのだけが気掛かりなのですが、あれほど重く患われたのだから致し方あるまい、そういつまでも気を揉んでいてもしょうがないと努めて深刻に受け止めないようにしておられます。

 若君の眼差しの美しさなどが、東宮に生き写しなのをご覧になられるにつけ、たちまち恋しいお気持ちが募られ矢も盾もたまらず参内されようとなさいます、「宮中へもずいぶんご無沙汰いたしておりますので、ずっと気になっております、本日久方ぶりに伺うのですけど、もっとお近くでお話出来ますとありがたいのですが……。こんな他人行儀な距離もどうかと思いますよ。」と軽く詰る口調で仰います、「仰る通り、ご夫婦でいらっしゃいますもの、体裁ばかり取り繕うような間柄ではございません、例えご病気とは申せ、物越しのご対面はあまりに水くさいというものございますわね。」と女房が申し上げ、横たわっておられるお近くに御座所を急ぎしつらえたましたので、お入りになり、あれこれとお話をなさいました。

 時折ぽつりぽつりとなさるお返事も、まだいたくか弱いお声です。とは云え、あの時もうすっかり死んでしまわれたと思われたご様子を思い起こされますと、今はまるで夢のようで、瀕死の状態であられた折のお話などをお聞かせしておられますついでに、あの折すっかり息絶えてしまわれた容態でいらっしゃったのに、唐突に甦ってぶつぶつと喋られた事を思い出せば薄気味気悪く、「積もる話はありますが、まだ非道くしんどそうですから。」と仰って、「重湯をいかがですか」などとまでまめやかにご看病なさいますのを、女房たちはあんなあしらいをいつ覚えられたのかしらと感心しきりです。

 元々すこぶる美人の方が、甚だしく弱り果て、今にも消え入りそうな雰囲気で横たわっておられるお姿は、まことにいじらしく健気で同時に痛々しいものがございます。お髪の一本も乱れておらず、はらはらと枕にかかっておりますのが無類の美しさで、源氏の君はこれまでいったい自分は何を不満に思っていたのだろうと不可思議なくらいに目を凝らして見守られておられます。「ひとまず院に参上しますが、出来るだけ早めに帰ってきますね。こんな風にお気軽に対面できるとうれしいんですが、母宮がいつもお側におられますから、遠慮がないと思われてはとつい気が引けてしまいますのが辛いところです。やはりこのまま気持ちを強く持たれて、いつもの御座所に移られてくださいね。母宮があまりに子供扱いなさるものですから、ひとつにはなかなか回復されないというものありますよ。」などと優しいお言葉をかけられ、清々しいご装束をお召しになりお出掛けになられましたのを、いつにも増してじっと見つめられながら臥しておられます。

 秋には都の官吏を任命する司召があるのが決まりですので、左大臣も参内なさいます、お子様たちも忠勤に励まれ昇進を望んでおられますから、お父上の傍を片時も離れられることなく、皆々様引き続いて出掛けられました。

 人がいなくなり静まり返った左大臣邸では、北の方が突然以前のようにお胸が締め付けられ息が詰まり、身も世もないほど悶え苦しまれます。至急宮中に使者が立ちますがお知らせが届くまでに息が絶えてしまわれました。誰も彼もがただちに踵を返して退出され駆けつけます、折角の除目の夜なのに、拠ん所ない支障にすべてが木っ端微塵になってしまったかのような有り様です。

 上を下への大騒ぎですが、なにせ深夜ですから、天台座主も名だたる高僧も間に合いません。今はもうそれほど心配するほどのことはないと気が弛み胸を撫で下ろしておりましたのに、あまりにも不意の出来事でしたので、邸内の人達はあわてふためいてあちらこちらの物にぶつかっております。方々から弔問の使者達が引きも切らずやって来ますが、取り次ぐ暇もあらばこそただただ狼狽えており、ご親族の絶望の深さ諸々は想像するだに身も凍るほどでございます。これまでも御物の怪が取り憑いて亡くなりかけたことが度々あり、枕なども動かすことなく二三日様子をうかがっておられましたが、やがてくっきりと死相が表れてしまわれましたので、もはやこれまでと諦めざるをえなくなってしまったのは、誰も皆無念極まりない心境です。

 大将源氏の君は、悲しい出来事の上に生霊の件が加わって、男女の仲にすっかり希望をなくされてしまわれましたので、深い仲の方々からのお弔いも鬱陶しいとしか感じられません。

 桐壺院におかれましてもお嘆きは通り一遍であろうはずもなく御弔意を表されましたのは、かえって光栄なことで、底知れぬ悲しみの中、一条の光となり、左大臣はただただ泣き濡れるばかりでございます。周囲の勧めもあり、大掛かりな加持祈祷など、万が一にも生き返られるかとあらゆる手段を講じられます、その間も亡骸が徐々に様変わりしてゆくのをつぶさにご覧になりつつ、どこまでも錯乱されておられますが、数々の手だても空しく日々が過ぎ去ってゆき、今となってはなす術もなく、鳥野辺にお運びいたします際にも心傷む出来事が多々ありました。

 あちらこちらのお見送りの方々、そこかしこの寺の念仏僧たちが周囲を埋め尽くしております。桐壺院は云うに及ばず、藤壺中宮、東宮などからの御使者、その他諸々の使いの者たちが次から次へと訪れて、引きも切らず哀悼の言葉を述べられます。左大臣は立ち上がることさえお出来になりません。「こんなにも年老いた身で、よもや若く溌剌とした娘に先立たれ地を這うことになろうとは……。」と恥じ入り滂沱の涙を流されますのを周りの人達も涙なしに拝見することは出来ません。夜を徹してものものしく葬儀が執り行われ、儚い存在と成り果てた御骸のみを残し、夜明け間近に一同は引き上げられました。

 死に別れは常の事ではございますが、源氏の君はこれまでお一人くらいのもので、ほとんど経験されたことがありませんためか、この上ないほど亡き北の方を恋い焦がれていらっしゃいます。八月も二十日を過ぎた明け方の月ですので、それでなくとも少なからぬ情緒があります、そんな景色の中、我が子を亡くされた闇をさ迷う左大臣のお姿はいたって当然の事と深く頷かれ、空ばかりを見上げられながら、

立ち昇った煙は雲に紛れてはっきりと見分けられない、それだけにこの空がいっそうしみじみと身につまされる

 左大臣邸にご帰還されましても、まんじりともなされません。ここ数年の北の方の面影を思い出され、どうして、いつか気がついて目覚めてくださるはずと能天気にあちこちの女人たちにつまらない目移りをし、あのお方に辛い想いをさせてしまったのだろう、この世では私のことをずっと薄情な恥知らずと思われて去ってゆかれたのだな、と次から次へと悔やまれるあれやこれやが脳裏を駆け巡りますが、所詮は後悔先に立たずでございました。

 鈍色に近い色合いのお召し物を纏われるのもまるで夢の中にいるようで、仮に自分が先立っていたならあのお方はきっともっと深く濃い色に染められたに違いないと想像なさいますことさえ、

決まりに則り喪服の色は薄いけれど、涙が袖に淵となり本当の藤衣になってしまいました

そう漏らされてお経を上げられますお姿が、一段と艶めいて、しめやかなお声で読み上げられる「法界三昧普賢大士」という文言は、その辺の手慣れた僧侶の比ではございません。

 若宮のお顔をご覧になられても、「何に忍ぶの」とまたぞろ涙が浮かぶのですが、せめてこの形見が遺されているだけでもとご自分でご自分を慰撫されておられます。母宮はすっかり落ち込んでしまわれ、臥されたまま起き上がってこられません、いかにも重態のように見受けられますので、またしてもお屋敷中大騒ぎとなり、御祈祷をお命じになられました。


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