
とかく煩い事ばかり起こりがちですが、尚侍の君へは内密にお心を通わせておられますので、厄介というだけで決してお付き合いは途絶えておりません。五壇の加持祈祷が始まり、お上が謹慎なさっておられる間隙を縫って、あの夢のような逢い引きが再現されます。いつぞやの懐かしい細殿の局に、女房中納言の君が首尾よく手引きいたします。折柄人目も多く、いつもよりぐっとお側近くの逢瀬に鳥肌の立つ思いがいたします。朝に夕にご尊顔を拝する者でさえ見飽きることのないお顔ですから、ましてや滅多に逢えない者がどうして平常心でいられましょう。女君の御容姿はまさに今が盛りです。思慮深さという点ではいさかか心許ないところもありますが、匂うが如き美しさに若さが溢れて、思わず見とれてしまいます。
そのうちそろそろ夜も明ける頃だなと思われたその時、ほんの目と鼻の先で、「宿直が名乗ります」とわざと相手に気付かせるような作り声が聞こえました。ははぁ、さてはこの辺に隠れている近衛司がいるんだな、性悪な同僚が告げ口をして寄越したに相違ない、耳にされながら大将源氏の君はそう踏んでおられます。笑わせますがいささか鬱陶しくもあります。そこかしこを尋ね歩いては「寅一つ」と云っております。女君が、
自ら望んだこととは云え涙に袖が濡れてしまいます、夜が明けるの言葉が飽きるに聞こえてしまいまして……
と仰られるお姿が、心許なそうで実に可憐です。
嘆きのまま一生を送れと云うのだろうか、胸のつかえが明けることもなく
夜明け間近のまだ月の残る空に、朦朧と霧が立ち込める中、いたく御身をやつされて振る舞われる典雅なお姿はまさに比類なきものがありますが、承香殿の女御の兄上藤少将が、藤壺より出て、月がわずかばかり隈となっている立蔀の下に立っているのにも気付かれることなく通り過ぎてゆかれたのは、迂闊であったと云うべきでありましょう。いずれ少将が面倒な事を云い出すやもしれません。
このような事がありますにつけ、努めて距離を置き、冷たくあしらっておられるお方のお心映えを、ある意味ご立派と敬服されてはおりますが、一方であくまで自分寄りにお考えになられますと、やはり恨みがましくやるせないと思われることも多いようでございます。
藤壺中宮は、宮中に参内するのをつい気後れされ窮屈に思われて、東宮にお逢い出来ませんのが歯がゆく不安でなりません。同時に他に頼るべき人もいらっしゃいませんので、ただ大将源氏の君だけを万事頼りにしておられるにもかかわらず、依然としてあちらは邪な欲望をお持ちのままです、ともすれば胸がつぶれる思いがいたしますが、院がその気配すら露知らずお亡くなりになられた事を思うだに慄然とするばかりで、今更そのような噂が広まったりしたら、我が身はさておき、東宮にとっては必ずやよからぬ事態となるであろうとお考えになられた末、ついには御祈祷までもお命じになり、源氏の君に邪念を思いとどまらせようと、手を尽くして逃げ廻っておられましたが、どのような機会があったのでしょうか、大胆にも源氏の君がすぐ傍まで忍んで来られたことがありました。用意周到に計画されてのことだったのでしょう女房たちも誰一人勘づく者とてなく、まるで夢の中の出来事のようでした。
言葉の限りを尽くしてひたすら云い寄られますが、そうされればされるほど中宮はつれない態度を取られ、そうこうするうちに動悸が激しくなられて近くに控えておりました命婦や弁などが大慌てで介抱いたします。男は非道い薄情にも程があると果てしなく恨み、これまでそしてこれから先が暗闇に閉ざされた心地がして、現実感を失った挙げ句、夜が明けたものの出てゆこうともなさいません。
中宮の急変に驚愕し、お付きの者たちがお近くで出たり入ったりしているのに紛れるようにして、心ここに非ずの源氏の君は納戸に押し込められておられます。お召し物をそっと隠し持っております者の心中はいたって複雑です。中宮は思い詰められたあまりお頭に血が上られ、御容態は悪化の一途を辿られていれます。ついには兵部卿宮、中宮大夫までもが駆けつけ、「すぐに僧を呼べ」などと取り乱しておりますのを、源氏の君は納戸の内でなす術もなく聞いておられます。そのうち夕暮れ時になってようやく回復されました。
中宮もよもやそんな所に源氏の君が隠れておられるとは思いもよらず、周りもまたぞろご心配をおかけすまいとの配慮から、敢えて詳細をお伝えしてはいないのでしょう。ほどなくして昼の御座にいざり出て来られました。さてはよくなられたのであろうと、兵部卿宮もお帰りになりましたので、御前には人影もまばらになりました。そもそも平素よりお使いになられておられる女房たちも多くありませんから、皆々その辺りの物陰に控えております。命婦の君などは、「はてさてどう誤魔化して源氏の君をお出しすればよいのやら……。今宵また具合が悪くなられたりしたらどうしましょう……。」と口々に囁きながら頭を抱えております。
源氏の君は、塗籠の戸がわずかに細く開いていましたのをそろりと押し開け、屏風の隙間へと御身を入れられました。どれだけこの日を待ちわびたことかと歓喜され、思わず涙を流されながらお顔を拝見いたします。「また胸が苦しい……。このまま死んでしまいそう……。」と嘆きつつそっぽを向かれた横顔が、名状し難い色香を放って源氏の君の眼に映ります。「せめて果物でもいかがでしょうか。」と云って女房が運んで来て御前に据えます。箱の蓋などにもさも美味しそうに盛ってあるのですが、中宮は見向きもされません。我が身の何もかもが心底疎ましく深い悩みに沈んでおられるらしく、静かに一点を見つめられておられるお姿は、実に可憐です。お髪の生え際、おつむりの形、お髪の流れ具合、比類なき目映さ等、ほとんどあの西の対の姫と寸分違わぬ美しさです。そのことをすっかり忘れておられましたが、改めてそら恐ろしいほどに似通っている……と感心しきりでご覧になりながら、それがこの苦悩の一筋の光明のような心境になられておられます。
気品にあふれこちらが思わず恥じ入ってしまうほどの美貌も、到底別人とは思えない程ですが、やはり永年恋い焦がれておられた心模様からでしょうか、こちらのお方はいつの間にか今を盛りの絶世の美人になられたのだなぁと格別の想いを抱かれ、つい魔が差しそそっと几帳の内に御身を滑らせると、ご自身のお召し物の褄を引き衣擦れの音を立てられました。はっきりと感じ取れる紛う方なき気配と薫りに、中宮は思わず鳥肌が立ち、御身を臥せてしまわれました。「せめてお顔だけでも」と後ろめたさと切なさからこちらに引き寄せようとなさいますけれど、お召し物をするりと脱ぎ捨てられいざりつつかわそうとなさいます、ただ思いがけずお髪が共に取られてしまわれており、呆然とされ、逃れ難き定めを改めて思い知らされ絶望されておられます。
男君も、長い年月堪えに堪えてきた心の箍が外れ惑乱が極まって我を失い、ありとあらゆることを涙ながらに訴えられますが、身の毛もよだつほど汚らわしいと思われ、女君はお返事もなさいません。ただひと言だけ、「今はあまりにも胸が苦しいのです、またそうでない折に……。」と仰いますが、源氏の君は想いの丈の限りを止めどなく述べ続けられます。聞こえてくるお言葉の中には胸を揺さぶられる節々もなくはないのでしょう、かつてそのようなことがあったのも事実です、ですがここでまた同じ過ちを繰り返すことはあまりに情けなく、御心は動きはいたしますけれども、どうにかこうにか云い逃れながら、また今宵も更けてゆくのでした。源氏の君もこれ以上お言葉に背くことはさすがに畏れ多く、近寄りがたい気高さに圧されて、「ただこんな風に、ほんの時たまお逢いして心に蟠るもやもやが晴らせるのでしたら、不埒な料簡も一切抱きません。」などとなだめすかし云いくるめようとなさったのでしょう。ありふれた間柄でさえ、このような逢瀬は切ないものです、ましてやこのお二人のような退っ引きならない類いの御関係では云うに及ばずといったところです。