
十二月十日過ぎには、中宮の御八講がございます。なんと尊いことでしょう。日々の供養のためのお経はもとより、玉の軸、羅の表紙、帙簀の飾りに至るまで、二つとないほどご立派に整えられます。お普段のちょっとした催しでも美意識高く設えられますから、当然のことと申せましょう。仏さまのお飾り、花机の覆い物までにも気を配られ、極楽浄土もかくやと思わせるばかりです。
初日は亡父先帝のための御供養を、翌日は母后のため、そしてその翌日が故桐壺院のための御供養となります。その日が法華経の第五巻を講じる日にあたりますので、上達部たちも右大臣家に憚ることなく多数参列いたしました。本日の講師には、とりわけ僧を選りすぐられました、お釈迦さまの薪木の行道から始まり、同じように口にされる言葉も、とびきり尊く耳に響きます。親王たちもとりどりの供物を捧げて廻られますが、大将源氏の君がご用意された品々には遥かに及びません。いつもいつもこうして源氏の君を褒めちぎっておりますけれど、お逢いする度に新鮮な感動がありますので、自分でもどうしようもないのです。
いよいよ最終日となり、中宮がご自身の結願として、出家なさる旨をみ仏に申し上げられましたので、誰もが驚愕いたしました。兵部卿宮も大将源氏の君も動揺され、あなりの意外さに茫然とされておられます。兵部卿宮は、儀式半ばにもかかわらず御簾の内に入られました。中宮は決意の固さを毅然と述べられますと、法会終了間際に天台座主をお召しになり、受戒の申し入れをなさいます。伯父にあたられる横川の僧都がお側に近寄り、お髪をおろされる間、御殿が揺り動くばかりに皆々の慟哭が響き渡ります。なんということもない老いさらばえた人でさえ、いざ出家するとなれば、それなりにしんみりとしもの悲しくなるものですが、ましてやその御覚悟をおくびにも出されておられなかった方がなさることですから、兵部卿宮も辺り憚らず泣き崩れられます。
参列されておられた方々も、それでなくとも辺り一面心打たれる尊い雰囲気に包まれておりますから、一人残らず涙で袖を濡らして帰られました。
亡き桐壺院のお子様たちは、中宮のかつての栄華を否が応にも思い出されてしまいますので、悲哀も限りなく、揃ってお悔やみを申し上げます。大将源氏の君はお一人残られ、お掛けすべき言葉も見当たらず、ひたすら惑乱なさっておいででしたが、そこまでになられるのには何か深いわけがあるのでは……と皆が訝しむでしょうから、親王たちが退がられた後に御前へと進まれました。
ようやく辺りが静まり返り、女房たちは鼻をすすり上げながら、あちらこちらに寄り添いあっております。一点の隈もない月が庭の雪を煌々と照らしていますのが、在りし日の事をつい思い出させます、堪えきれぬ想いが込み上げてきますが、懸命に心を鎮められ、「一体どのような想いから、こうも急に世を捨てる御決心をなさったのですか。」とだけ口にされました。「今初めて考えさせてもらったことではありませんけれど、思った以上に周りが大騒ぎするものですから、迷いが生じぬように……。」等、いつもの命婦を介して仰います。御簾の向こうの気配、周囲に控える女房たちの衣擦れの音、優雅なお振る舞いでわずかに身動きなさりながら、拭いようのない悲しみが伝わってきますのが、無理からぬことと心を揺り動かされます。
風が強まり吹雪となりました、御簾の内の香りは、夜に焚く奥深い味わいの黒方で、仏前に供える名香もほのかに薫っております。そこに大将源氏の君の香りも入り交じり、極楽さながらの一夜となっております。東宮の御使者もやってまいりました。あの折東宮が仰ったお言葉を思い返されますと、いかな強いご決心であっても堪えきれず、お返しもままなりませんので、源氏の君がお言葉を添えられました。
その場におります全員が、平常心を失っておりますので、源氏の君も思いの丈を口に出すことがお出来になりません。
「月の住む雲の上を慕って出家を試みても、子ゆえの心の闇に迷う羽目になるでしょう
そう思いましたところで詮ないことでございます。御英断が羨ましくてなりません。」とのみ仰って、近くに侍る女房たちを憚られ、とめどなく乱れる胸の内をお伝え出来ませんのは、なんと歯がゆいことでしょう。
「この世のあらゆることが辛くて出家したものの、いつになれば子を思う心の闇から解放されほんとうの意味で世を捨てることが出来るのやら……
まだ心は濁っております。」等、一部お付きの女房が気を利かせたと思われます。哀しみが募るばかりですので、源氏の君も胸を詰まらせたまま退出なさいました。
御殿にお戻りになられても、自室に籠られお一人で横たわられたまま、まんじりともなさらずに、ひたすらこの世を厭うておられますが、ただひとつ東宮のことだけが気掛かりでございます。故桐壺院も、せめて母宮を中宮とし公の後ろ楯にと思われていらっしゃったけれど、世の辛苦に耐えきれずあのようなお姿となられた以上、中宮の位に留まり続けるのはいくらなんでも厳しいであろう、その上自分までもがまるで見捨てるかのように出家してしまったら……、と際限なく悩み明かしておられます。それはそれとして今はみ仏にお仕えするための調度類が御入り用のはずと、年内に揃えるべく急がせておいでです。命婦の君も、中宮のお供をして出家いたしました、そちらにも丁重なお見舞いを遣わします。あまりにくだくだしく述べますと事が大袈裟になりがちですので、きっと書き漏らしもあるでしょう。このような折には気の利いた歌のひとつも口をついて出るものですが、そこはいささか残念ではあります。
やがて年も改まり、宮中におかれましては華々しく内宴や踏歌などが催されると耳にされましても、虚しいお気持ちになられるばかり、ただ粛々とお勤めをこなされながら後世への想いだけを心の支えにしていらっしゃいますと頼もしく感じられ、煩雑な諸々の事が他人事のように思える気がいたします。いつもの御念誦堂はもちろんのこと、西の対の南側に、家屋より少々離れたところに特別に建てられた御堂にて熱心に勤行に励まれます。
大将源氏の君が、中宮の許に新年のご挨拶に参上いたしました。年が改まった賑々しさもなく、御殿はひっそりと静まり返り、人影もまばらで、お仕えしておりますのもごく親しいものばかりですが、皆一様にうなだれ、そう見るからでしょう、どことなく暗い陰があります。そんな中、おめでたい白馬だけが今までと同じく牽かれてきますのを、女房たちが見ております。昨年までは引きも切らずご挨拶に参上いたしておりました上達部たちも、今年はわざわざ道を避けて通り過ぎ、お向かいの右大臣邸へと集まっておりますのは、世のならいとは申せ、淋しさが拭えませんでしたが、源氏の君が千人力とも思える心強さで、真心を尽くしてお訪ねになられたお姿を拝見いたしますと、こちらまで泣けてくるのでございます。
客人源氏の君も、いたく心打たれる景色を眺められ、しばし口をつぐまれていらっしゃいます。すっかり様変わりされたお住まいの佇まい、御簾の端も御几帳も青鈍色となり、隙間隙間からちらりと見えます薄鈍、梔子の袖口などが、妙になまめいて奥ゆかしいものと眼に映っておられます。そんな中、溶けかかった池の薄氷と岸の柳の景色だけが季節を忘れずにいてくれているのをじっくりと眺めやり、「むべも心ある」と後撰集の歌を口ずさまれるのが、またたまらなく麗しいのでございます。
この松が浦島には物想いに沈む尼が住んでいる、そう見るだけで思わず知らず涙が込み上げてきます
そう申し上げますと、さほど奥行きもないお部屋で、すべてみ仏にお譲りした御座所ですから、いままでよりほんの少し近いように感じられ、
かつての名残をとどめないこの浦島に、立ち寄る波とてありませんが、今日はめずらしくも立ち寄ってくださる方がいらっしゃるんですね
と仰られるのが仄かに聞こえ、堪えておられた涙がとめどなく溢れておられます。
すっかり悟りの境地に達した尼君たちにじっと見つめられるのもきまりが悪く、言葉少なに退がられてしまわれました。
「それにしても歳を重ねられるにつれ、比類なくご立派になられるものですねぇ。何不自由なく栄華を謳歌されておられた時分は、唯一無二かつ絶対のお方で、どうも世の中のことが今一つお分かりになられておられないと見ておりましたけれど、今や貫禄さえ漂わせ、ほんの些細なことにもお心が震えるような素振りをなさるのは、拝見していてこちらが恐縮してしまいますわねぇ。」などと、老女房たちは涙ながらに褒め讃えます。中宮も思い当たられることが多いのでした。