
世の中はままならぬもの、見下げ果てたことばかりが増えてゆきますから、なるたけ我関せずを貫こうとしても、今以上に屈辱的な目に遭うこともるまいと思われるようになりました。
あの須磨は、過去にこそ人の住まいがありましたけれど、今やすっかり鄙びてしまい、漁師の家ですらぽつぽつとしかないなどと聞き及ばれておりますが、やたらと人の行き交うようなざわついた家に住むというのも本意ではありませんでしょう、とは云うもののやはり都から遥かに離れてしまうのも、里心が募って考えものだし……、とあられもなく思い迷われておられます。
ありとあらゆる過ぎ去った日々のことそしてこれからのことを思い続けておられますと、改めてあまりに悲しいことばかりが多いように思えるのでした。所詮は生き辛いものと見限った世の中ですけれど、いざ離れて住む事を考える段になりますと、後ろ髪を引かれるあれこれがある中でも、西の対の姫君が朝に夕に嘆き暮らしている姿が申し訳なく不憫でならず、一旦お別れしても必ずまた逢えることがはっきりしている折ですら、ほんの一日か二日別々に暮らしているだけで気掛かりでならず、姫君の方もずっと心細く感じておられるのですから、何年と決まった別離でなく、恋しい気持ちを持て余しつつ離れ離れになるのも、この無常な世の中でやがて訪れる永遠のお別れの門出になるような気がして動揺なさいます、ならばいっそのこと連れてゆこうかとそんなお考えに傾きかけますが、そのような荒涼とした海風以外に訪う者とていないような場所に、あんな可憐な姫を伴って赴くのも相応しくありません、当然自分もいっ時もお心が休まることはないであろう、などと慌てて打ち消されます、一方の姫君は、たとえ棘の道であろうと貴方様とご一緒ならば……、とご不満そうにしておいでです。
あの花散里の君のところにも、ごくたまにしかお通いにはなりませんが、心細く寄る辺ない境遇を、源氏の君の御庇護のみでお過ごしになられておられますから、どうしてよいのやら……と嘆いておられるのもしごくごもっともです。ほんの気まぐれながら仮初めのご縁が結ばれたあちらこちらにも、秘めた想いに心を砕いておられる方々も多くいらっしゃいます。
出家なさった宮からも、口さがない世間がまたなんと云うかと、ご自身のお立場を省みながらも、内密なお便りが日々遣わされます。かつてこのようにお心を寄せてくださり、情を移してくださっていれば……、とつい思い返されないわけではありません、まったくもってこのお方とは何から何まで悩み抜かされる宿縁なんだなぁと、身につまされておられます。
三月二十日過ぎだったでしょうか、ついに都を離れられました。誰にも内緒で、日頃よりお側に仕えている者たちだけをほんの七、八人お連れになって出立なさいます。それ相応の方々の許へはお便りだけを、たまさか戯れに通われたお相手に対しても、情感たっぷりに相手方を慮ったお言葉を尽くされて認められます、このような類いのお便りには心動かされずにはおかない文言もあったに違いありませんけれど、なにせ取り込んでおられましたので、詳細はつい聞き漏らしてしまいました。
ご出発の二、三日前に、夜に紛れて左大臣邸を訪問されました。みすぼらしい網代車で、女車のように見せかけてこっそり入られましたのが、哀れをもよおしなんだかまるで夢の中の出来事のようでした。亡き北の方のお部屋は寒々しいばかりに荒れた印象を受けましたが、若君の乳母をはじめ、以前よりお仕えしておりました者で御殿を去らなかった人たちだけが、こんな風にお越しになられたことをありがたく思い、そこかしこから集まってきてはご挨拶申し上げます、まだ行き届かないところの多い若い女房たちまでもが、この世の無常をひしひしと感じて涙にくれております。ただお一人お美しい若君だけが、無邪気にはしゃいでおられます。「長らくお逢いしなかったのに、覚えていてくれているんですね。」そう仰ってお膝に乗せられたお姿は、ぐっと何かを堪えておられるように見受けられました。
しばらくして左大臣もこちらにお越しになり、ご対面なさいました。「このところ無聊をかこたれ引き籠っておられると聞き及び、他愛ない昔話でもお聞かせいたそうかと伺うつもりでおりましたが、重い病のため出仕もままならず、もとより官位もお返しした身でございますすから、なんだ私事なら腰が伸びるじゃないか、などと陰口を叩かれそうで、まぁ今となっては世間の目を気にする立場ではありませんけれど、容赦ない世の中が怖くてならないのです。よもやこのような出来事をこの目で見る羽目になろうとは、長生きしたところでいい事など何もないと悲嘆に暮れる晩年でございます。たとえ天地がひっくり返っても、夢想だにしておりませんでした御境涯を拝見いたしますにつけ、何もかもが嫌になってしまいましたよ。」と申し上げ、すっかり悄気ておられます。
「あのような事もまたこのような事も、すべては前世の報い、詰まるところは身から出た錆に他なりません。そもそも私のように官位を剥奪されずとも、ほんの些細な悪事に関係していただけでも、勅命により謹慎を余儀なくなされている者が普段とかわらぬ人付き合いをするのは、他国においては重罪と見なされます、事によっては遠流となることさえあると云いますから、途方もない罰に価することとなりましょう。とはいえ我が身に照らしてうしろ暗いところは微塵もないと平然としているのもなにかと差し障りが多いですから、今以上の屈辱を味あわされる前に、とっととこの世とおさらばしようと決めたのです。」などと事細かに述べられました。左大臣が、昔昔のお話、院にまつわる挿話、仰っておられたお言葉の御真意等々を尽きることなく話され、直衣のお袖を掴んでお離しになりませんから、源氏の君も邪険には出来ません。その最中にも、若君が無邪気にお二人にじゃれつかれ、なんともいたたまれぬお気持ちになります。
「亡くなられた人を、片時も忘れることが出来ず今にいたっても悲しんでおります、この度の事、もし生きておられたらどれ程嘆いたことかと、よくぞ短い命を散らしてこのような悪夢を見ないですんだものよ、とそう思うことで自分を慰めておるのです。それより何よりいとけないお方が、こんな老いさらばえた年寄りたちに囲まれたまま、お父様と馴染むことなくいたずらに日々を過ごされることが、何にも増して悲しゅうございます。古人も、仮に本当の罪を犯したとしても、ここまで非道い罰を受けることはありませんでした。そう考えますとやはり前世の報いというのは当たっており、他国の宮廷でもこの類いは多く見られます。そうは申しましても、そんなことを云い出すきっかけがあっての処遇でございます、いくら考えましてもこの度の事は青天の霹靂としか思えません。」等々、いつまでも話し続けておられます。
そのうち三位中将もいらっしゃって輪に加わられ、おおいにお酒を召し上がっておりますうちに、夜が更けましたのでお泊まりになることになり、女房たちを侍らせてお喋りに興じられます。その中でもとりわけ目をかけておられる中納言の君が、悲しみを口にすることなく無言のままでおりますのを、心の内で不憫に思われておられます。邸内の者たちが寝静まりますと、いっそう親密にお話になられます。そうされんがためにお泊まりになられたのでしょう。やがて夜が明け、まだ暗いうちに出立なさいます、有明の月も冴え冴えと、終わりを迎えた花の木にほのかに芽吹いた新芽と木陰、庭に薄っすらと白く霧が立ちこめてなんとはなしに霞のようで、秋の夜の風情の中でも抜きん出ております。源氏の君は高欄にもたれかかり、じっとお庭を眺めておられます。中納言の君が、お見送りしようと思っているのか、寝殿の開き戸を明けて控えております。「再び逢うのはいつの日か、ちょっと考えられないね。こんな世になるなんて夢にも思わず、逢いたくなったらいつでも逢えると呑気に構えていた日々をなんと無駄に過ごしたことだろう……。」などと仰いますと、中納言の君は声を圧し殺して泣いております。