
四月になり、若宮がようやく宮中に上がられました。二ヶ月にしては大きく育たれ、もう起き返りなどもなさいます。目を見張るほど源氏の君に生き写しなのですが、お上におかれましては思いもよらない事ですので、比類なき者同士はなるほどどこんな風に似通うものなのかもしれぬと思っておられるようです。この上なく愛しまれ大切に大切に育てられております。源氏の君を格別に思われながらも、世間が許さないであろうと遠慮され、東宮にも据えられなかった事がずっと心残りでいらっしゃいました、今や臣下にしておくにはあまりにもったいないほど美々しいお姿にご成長なさいましたのをご覧になり、申し訳なく思われておいででしたが、この度このような高貴なご身分の姫のお腹から同様に光輝く皇子がお生まれになりましたので、瑕のない玉とばかりに溺愛されておりますため、藤壺宮におかれましては事あるごとに胸塞がれ心休まる暇もございません。
例によって源氏の中将が、藤壺宮の御殿で管弦のお遊びに興じておりますと、お上が若宮を抱きかかえてお出ましになり、「御子はたくさんいるけれど、このくらいの時分から四六時中傍に置いて育てたのは実は御前だけなのだよ。そんなわけだからつい同じように見てしまうのかもしれないが、それにしてもよく似ていることよ。ほんの幼児の頃は、皆こういう顔をしているものなのかね。」と仰って、なんと可愛いと溺愛されておられます。
源氏の中将は思わず青ざめ、おののきと畏れ多さ、歓喜と感慨がめくるめいて入り交じり、気が付けば涙をこぼさんばかりでございました。何やらお言葉を口にされて笑っておられるお顔が鳥肌が立つほどお美しく、我ながらこのお顔にそんなに似ているとははなはだ恐れ入ると思われるあたりは、いささか手前味噌と申せましょう。方や藤壺宮は耐え難く身の置き所のなさに、びっしょりと汗をかいておられます。源氏の中将は、複雑なお気持ちにいたたまれず、退がられてしまいました。
ご自宅の二条院でひと休みされて、胸のざわめきを鎮められてから左大臣邸に向かおうと決められました。眼前の前栽がはからずも青々としてきている中に、撫子がひときわあざやかに咲きだしているのを目に留められて一輪手折られ、命婦の君宛てに認められたことはさぞや多かったのではないでしょうか。
生き生きと咲く撫子を若宮になぞらえてみましたが、気持ちは慰められません、むしろ花の露にもまさる涙が零れるばかりです
花が咲いたらと思っておりましたのに、相変わらずままならない私たちの仲でございます、とあります。さてはよい折があったのでしょう、お目にかけ、「もしよろしければ、ひと言だけでもお返事をこの花弁に。」と懇願いたしますと、藤壺宮にも様々に胸に去来することがおありのようで、
貴方の袖を濡らす露のわけを想うだに、やはりこの大和撫子を疎ましく思ってしまうのです
とだけ、消え入るような調子でまるで書くのを一端止めたかのような歌を、喜び勇んで源氏の君に手渡しました、いつものようにお返事はなかろうと半ば諦めておられた源氏の君は、気落ちされ臥しておられたのですが、文をお受け取りになられるや胸が高鳴り、飛び上がらんばかりに喜ばれ感涙にむせばれております。
考えれば考えるほど堂々巡りです、やるせなさだけが募られ、こういう折には常のように西の対においでになります。物思いの名残の無造作に乱れほつれた鬢のまま、くつろいだ格好の袿姿で、笛なんぞ戯れに奏でつつ覗かれましたところ、女君は先ほど目にされた撫子の露さながらに凭れ臥しておられ、なんと美しくなんと可愛いらしいのだろうと思われます。愛嬌たっぷりなのですが、どうやら源氏の君がご帰宅になられていつになくまっすぐに西の対に来られなかったことがご不満なのか、少々おかんむりのようです、端っこに座られ、「こっちへいらっしゃい。」とお誘いしますが知らん顔をされておられます。やがて「入りぬる潮の」と万葉集の一節を口ずさまれて、お袖でお口を覆われましたのが、いやはやなんとも洒落ていて色気充分ではありませんか。「仰いますねぇ。いつの間にそんな言葉を覚えられたのです。『みるめに飽く』とは感心しませんよ。」と古今集を引かれてお返しになり、人をお呼びになりお琴を持ってこさせお弾かせになりました。
「十三絃の琴は中の細い絃が切れやすいのが難点です。」そう仰って、まず弾きやすい平調に整えられて先にお弾きになります。出だしだけを弾かれ、譲られますと、いつまでもご機嫌斜めではいらっしゃれないのでしょう、実にお上手に奏でられます。まだお子様ですので、左手を伸ばされ絃を押さえられるお手つきがまことに可憐で、愛しく思われて、ご自分は笛を吹かれつつご指導なさいます。覚えが早く、面倒な調子も一度教えられただけで難なく弾いてみせます。何事もこのように器用にこなされ才気煥発でいらっしゃいますので、源氏の君もかねてからの想いが叶ったとご満悦です。保曾呂惧世利という曲は、曲名こそ変わっていますが、源氏の君が絶妙に笛で奏でられますと、合わせるお琴の音色も、まだ上達途中ながらきちんと拍子をとりますので、いかにも上手そうに聴こえてしまうのでした。
灯火を点けられ、いくつもの絵などをご覧になっておられますと、お出掛けになられるとのことで、近習たちが咳払いして急き立て、「雨の降る前にお出ましを」などと申します、姫君は例によって心細くなりしょんぼりなさいました。絵をうっちゃってうつ伏されておりますのが甚だ可憐で、ふわふわと溢れておりますお髪を撫で上げて、「私が留守にすると恋しいですか。」と源氏の君がお訊ねになりますと、こっくりと頷かれました。「私も一日お逢いしないだけでとっても苦しくなりますよ。でもね幼くていらっしゃる間は安心ですから、何はさておき執念深く恨む人のご機嫌を損ねるのがしんどいので、今しばらくはこうして夜歩きをするんです。大人になられた暁には、絶対に外出なんぞしませんよ。なるたけ人から恨まれないように気をつけているのも、出来る限り長生きをして、願い通り貴女と一緒に暮らしたいからなんです。」等々細やかにお話になられますと、さすがに恥じ入られ、なんとお返事してよいのか戸惑われております。そのうちお膝に凭れてお眠りになられましたので、胸が熱くなられ、「今宵出掛けるのは止めにした。」と仰いますと、女房たち全員が立ち上がり、お膳などを運んでまいりました。姫君を揺り起こされ「出掛けないことになりました。」と囁かれますと、たちまちご機嫌になられ起き上がられました。ご一緒にお食事を召し上がられます。ほんのちょっとだけお箸をつけられ、「ならばお休みになられては。」とまだ疑いが拭えないご様子で申されます、源氏の君はこんないじらしい人を見捨てては、死出の旅路にすら赴けないであろうと再び胸を熱くされました。
と、こんな風につい引き留められてしまわれることが度重なり、自然と小耳に挟む者がおりまして、左大臣邸に告げ口いたしますので、「一体何処の何方でしょう。腸が煮えくり返るわね。これまで噂のひとつも聞いたことがなかったのに、そうまでお側につきまといしなだれかかって戯れたりするような女が、気品や嗜のある人のはずがないじゃないの。どうせ宮中でふっと目に留まられただけの女を、もったいつけて扱われ、口うるさい世間から隠しておられるのだわ。聞くところによれば分別もなくずいぶん幼稚という話よ。」などと女房たちが憤慨しております。
同時に宮中でも、源氏の君にそういう人がいらっしゃるというお噂がお上にまで届き、「なるほど左大臣が嘆くのもむべなるかなだね。まだ半人前だった頃、左大臣がどれほど力になってくれたか、そのお蔭で今があるのを忘れたわけではあるまいに、どうしてそこまで薄情なことをするのだ。」と仰せになりますが、源氏の君はただただ恐縮されるばかりで、お口をつぐまれておられますので、さては北の方が気に入らないのだなと同情されておられます。「とは云うものの、好き心が嵩じて妄りがましい振る舞いをするわけでもなし、この辺りの女房たちにも、そこかしこの女にもひとしなみに昵懇になったというような話も聞いたことがない。一体何の影に隠れて忍び歩いては、そうまで人の恨みを買ってしまうのだろうか。」としみじみと仰いました。
かく仰るお上ご自身もお歳こそ召しておられますが、こと色好みの方面におかれましては今もって目端が利かれ、采女や女蔵人にいたるまで見目麗しく機転のきく者をとりわけ愛でられますので、昨今では教養も嗜みもある者が宮中には溢れております。源氏の君がちょっとでも戯れ言を口にされようものなら、お付き合いせぬ者は皆無と云っていいほどですのに、すっかりそういうやりとりにも馴れてしまわれたのか、実際に事に及ばれることもついぞなさそうです、試しに色っぽい言葉をお掛けする折もあるようですが、冷淡と思われない程度に軽く受け流され、実際にはそれ以上の行動を起こされないので、本気で物足りないと残念がる者もいるようです。