源氏物語 現代語訳 葵その2


 陽も高くなってきましたので、お支度も大袈裟になり過ぎない程度に整えられてご出立なさいました。見物の車が犇めき合っております間を、綺羅綺羅しく飾り立てた御一行の車が難渋しております。華やかな女房車が多く、下々の者たちがいない空間に狙いを定め周辺の車を一台残さず押し退けさせた中に、趣味のよい下簾を掛けたやや古びた網代車で、女人は人目を憚るのか奥まったところに乗っており、ちらりとのぞく袖口、裳裾、童女の衣装などの彩が小綺麗で、用心深く正体を隠すようにした気配が濃厚な車が二台ありました。「こちらは、そのように乱暴にどけられるような御車ではないぞ。」と従者が抗弁して手を触れさせようとしません。どの方面でも非道く酔っ払った若者たちが気色ばみ、一端かっとなって頭に血が上りますと手に負えないものです。年嵩の物わかりのよい御前の人たちが「手荒な真似はいかん。」となだめますが、収まるはずもありません。

 何を隠そうこちらの車は、斎宮の母君御息所が、悩み多き日々の気晴らしにと、ひっそりお出掛けになられた御車なのでした。気取られないようにされておられますが、自ずと分かってしまいました。「その程度の車に御大層なことを云わせるな。源氏の大将殿の威を借る狐のつもりかよ。」などと暴言を吐きます者もおります、左大臣家の従者には源氏の君の付き人も混じっておりますので、さすがに心が痛みますが、下手に口出しすればさらに面倒なことにもなりかねませんから、知らん振りをしております。ついに御息所の御車を立て続け押し出してしまい、勢い人だかりの後方に押しやられてしまっため何も見えなくなってしまいました。その屈辱はさておくにせよ、正体がばれてしまったことが何より無念でなりません。見れば榻なども全てへし折られ、その辺のみすぼらしい車に引っ掛けられておりますのが、なんともみっともなく痛恨の極みで、一体何のためにこんなところに来てしまったのかと唇を噛まれますが後の祭です。

 見物を諦めて帰ろうとなさいまして、通り抜けようと手こずっていた丁度その時、「御一行が通るぞ」と声が上がりました、さすがに薄情なお方の御前渡りを待とうという気になってしまうのは女心の未練というものでしょうか。それでも今いらっしゃる場所は「笹の隈」ですらありません、無情にもただ行き過ぎてゆくばかりですから、いっそう気を揉んでしまうことになってしまったのでした。実際、常にも増してきらびやかに飾り付けた車たちの、我がちに乗り溢れている下簾の隙間一つ一つにも、すましたお顔で通り過ぎるものもあれば、にやりと流し目を送られるものもあります。左大臣家の御車は一目瞭然ですから、いたって厳粛な面持ちで行き過ぎていかれました。お供の者たちも恭しく、礼節を尽くして御車の前を通ります、ないがしろにされたことに愕然とし御息所はうちひしがれてしまわれました。

影だけを残して流れる御手洗川の薄情さ、我が身の不幸せが思い知らされます

とつい涙が零れてしまうのが、侍女たちに見られてしまい気恥ずかしいと感じられますものの、目映いばかりのお姿お顔が大舞台でいっそう光り輝いておられたのを見なかったならきっと後悔しただろうとも思われます。

 お供の方々も各々の身分相応に装束、外見をとびきりに調えているように見えます中、上達部たちは殊に麗々しいのですが、一点の光の前ではすべてが霞んでしまっております。大将の随身は通常六名ですが更に殿上の将監までもが加えられておりますのは異例で、珍しい行幸の際などに限られております、それがこの度は右近の蔵人の将監が務めるているのです。他の六名も姿、容貌を煌めくばかりに整えて、こんな風に世の人々に恭しくかしづかれて進まれる源氏の君の晴れ姿の前では、草木すら靡かぬものはありません。

 壺装束という外出姿の品の悪くない女房や、世に背いた尼たちもが、人混みに蹂躙されながら見物に出ばってきていますのも、いつもなら見るに耐えないと憎々しげに見られるところ、今日に限っては仕方がないと許されますし、口がすぼんで髪を着物の中にたくし込んだみすぼらしい老婆が、合わせた掌を額に押し当てていたり、汚ならしい下卑た男までもが、自分の顔がどうなっているかに気付かずにへらへらと笑っています。源氏の君がまるで眼中にない間抜けな受領の娘などさえ、目一杯のお飾りを施した車に乗り込んで、わざとらしくおすましして取り繕っているのなども、なかなか滑稽な見物というべきでしょう。ましてや源氏の君がこっそり忍んでゆかれるあちこちの方々の中には、自身の取るに足らなさをまざまざと思い知らされ密かに嘆かれる方も多かったのではないでしょうか。

 式部卿宮は桟敷席でご高覧になられておりました。「なんたることか、歳を取るにつれどこまで美しくなられることやら、あれでは神々も放ってはおくまい。」と、ほとんど不吉なことのように思われてしまわれました。方やお嬢様の朝顔の姫君は、このところずっとお便りを頂戴しております源氏の君のお心が世間の男たちとは明らかに違っていますのを、並の男からでさえ悪い気はしないのに、よりにもよってああまで素敵な方なのかと強く印象づけられました。それでも今以上に距離を縮められようとは思われません。お付きの女房達は、うんざりするほど口を極めて絶賛しておりますけれど。

 祭当日は、左大臣邸の北の方は見物なさいません。源氏の君に、先日の車の事件をご注進する者がおり、あまりにお気の毒と同時に酷い仕打ちだと胸を痛められ、なんと云ってもあのように存在感のある立派な方が、やわらぎが足りず、強情なところがおありになるばかりに、ご自身ではそうとは意識しないうちにああいう事態を招いてしまったのだろう、一体にああいう間柄ではお互いに気遣いをすべき暗黙の了解があるはず、そこまで気が廻らない北の方の意向を受けて、次から次へと不心得者たちがしでかしたことに違いない、御息所ご本人は、きわめて奥ゆかしく、上品で嗜みのある方だから、さぞや傷つかれたことであろう、と同情され訪れて差し上げるのですが、斎宮の榊の禁忌を口実に、やすやすとは対面なさいません。さすがにもっともなこととは思われながらも、「困ったものよ、こうやって何事にも角を立てぬようになさってくださればよいものを。」とつい愚痴を溢されます。

 本日は二条院に姫君と離れておいでになり、祭の見物にお出掛けになられます。姫のいらっしゃる西の対に赴かれ、惟光に牛車を手配させます。姫付きの童女たちに向かい「女房たち、出掛けますか。」と軽口をたたかれつつ、姫君がことのほか美しくおめかしされておられるのをご覧になり、自然と微笑みが溢れます。「貴女はいらっしゃいね。一緒に観ましょう。」と仰っては、いつにも増して清らかなお髪を掻き撫でられ、「ずいぶんお裾を切り揃えておりませんね、今日は日もよろしいですから削ぎましょうか。」と暦博士を呼んでよき時間を見させているうちに、「まずは女房から」と童女たちの愛くるしい姿を眺めておられます。実に可愛いらしい髪の裾を華やかに切り揃えて、浮紋の上の袴にかかっておりますのは目にも鮮やかです。「姫君のお髪は私の担当だよ。」そう申され、「なんとたっぷりとしたお髪でしょうね。将来どれほど伸びますことやら。」と削がれるのに苦労されておいでです。「相当に長い人でも、額の髪は幾分短いものですが、まるきり後れ毛がないというのもあまりに無粋でしょう。」そう仰られ、削ぎ終えられて「千尋」と祝言を述べられますと、乳母の少納言は感激しもったいないことと畏まります。

計ることの出来ない海底の海松房のような貴女のお髪、伸びてゆく将来は私だけがお世話いたしますよ

と仰いますと、

千尋だなんて知る由もありません、だって潮の満ち引きのような貴方のお心が定まっておりませんもの

そう何かに書きつけていらっしゃるお姿は、聡明でありながらもまだ子供っぽさが抜けきっておらず愛くるしくて、ほのぼのと心が和まれます。

 今日も相変わらず見物客でごった返しております。馬場の殿舎近辺で立ち往生しながら、「この辺は上達部たちの車が多過ぎてうるさいね。」と躊躇されておりますと、上等の女車にぎゅうぎゅうに乗り合わせた中から、扇を差し出し人を呼び招いては、「ここにお立ちになられたらよろしいわ。場所をお譲りいたしますよ。」そう申します。

 一体どんな浮かれ女だろうと訝しまれますが、確かに格好の場所ではありますから、まずはお車を引き寄せさせ、「どうやって場所取りをなさったんですか。羨ましい限りですよ。」と仰いますと、粋な扇の端を折り、

儚いことですね、他の方と葵を翳してお逢いしておられたなんて、私は神の赦したもうたこの日を待っておりましたのに

到底立ち入れません……、と書かれた筆跡は紛う方なきあの典侍のものでした。開いた口が塞がらない、年甲斐もなくどこまで若ぶるつもるかとむっとされ、つとめてさりげなく、

葵を翳す貴女のお心こそ疑わしい、今日は何百何千という人に逢う日ですからね

それを聞いた女は悄気ております。

貴方に翳した葵は悔しいことに名ばかりでした、所詮は草の葉に過ぎませんのね

と申し上げます。好い人と乗り合わせていらっしゃるから簾をお上げにならないのね、とやっかむ者が大勢おります。御禊の日はいたって厳粛な面持ちでお通りになられたのに、今日はまたずいぶんと砕けたご様子、何方かしらん、乗り合わせていらっしゃるのは、きっと特別な方に違いないわ、などと想像を逞しくしております。張り合いのない相手とやり取りしてしまったな、とうんざりされながらも、あの典侍のように面の皮が厚くない人は、こちらが誰かと相乗りしていると、ちょっとした返しをするのも決まり悪がることでしょう。


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