源氏物語 現代語訳 葵その3


 一方御息所は、激しく懊悩のされる事が近年になく多くなりました。薄情な方と諦め見切ってはおられますが、もうこれきりと振り払って伊勢に下られるのはやはりとても淋しく、噂が広まり人々に嘲笑われるでしょうと思われます。とは云うもののこのまま都に居残るつもりなら、あの時のように皆々から蔑まれることがうとましく、『釣する海人のうけなれや』と寝ても覚めても思い惑われておられるからでしょうか、常に心ここにあらずの呈で、窶れきっておられます。大将殿源氏の君におかれましては、伊勢に下られる件を、ご自分とは無関係とお考えになられており、無謀極まることと強いてお引き留めもなさいません。「取るに足りない私のような男を、顔も見たくないと捨ててしまわれるのもごもっともですけれど、今は確かに腑抜けかもしれませんが、最後までお近くで見届けてくださるのが浅からぬご縁というものではないでしょうか。」そう嫌味たっぷりに仰いますので、決めかねておられたお心が少しでも慰められるかと無理してお出掛けになられた御禊の日に、あのような屈辱を味わわされる羽目となり、ますます何事につけても鬱々とされてしまうのでした。

 左大臣邸の北の方は、御物怪に取り憑かれたらしくいたく苦しまれておいでです、家中の者達が悲痛な思いに囚われておりますので、源氏の君も呑気に夜歩きをなさっている場合でもなく、勢い二条院にも時々しかおいでになりません。なんのかんのと申しましても、歴としたご身分お立場の特別なお方の、ご懐妊にまつわる御患いですから、非道くお心を痛められ、加持祈祷ほかあらゆる手立てをご自身のお部屋で執り行わせます。物怪、生霊といった類いがぞろぞろと姿を現し、それぞれが名乗りを上げる中、憑坐に容易に乗り移らず、ただ一心に源氏の君に傍から離れようとしない者がおります、特段恐ろしいわけでもうるさく感じられるわけでもないのですが、とにかくぴったりと張り付いています。修行を積んだ験者たちにも調伏されることなく、その執念と気迫はただ者ではないと見受けられます。

 源氏の君が常々通われておられる先をあれこれと詮索し、「あの御息所、あと二条院の姫君のお二人には、とりわけ深く思い入れておられるご様子だから、お怨みもさぞや深いんじゃないかしら……。」と女房たちが囁き合っており、占わせてみますが杳として正体が判明しません。物の怪と云いましても、これといって敵となるような方もおられません。亡き乳母だった人、もしくは親の一族に代々祟り続けてきた者の、この度の弱味につけこんで出て来たのが、特に悪さをするわけでもなく無作為に乱れ出てきます。北の方はただ忍び泣かれるばかりで、時折嗚咽を漏らされながら、いかにも耐えがたそうに身悶えされますので、どうなってしまわれるのかと、皆々様恐れおののき悲しみに包まれ狼狽えておられます。

 桐壺院からもひっきりなしにお見舞いの文が届き、加持祈祷についてまでお心配りいただく畏れ多さは、なんとも惜しまれるご身分と申すほかございません。世の人々が一人残らずご快癒をお祈り申し上げているという噂を耳にされますにつけ、御息所のご心中は穏やかではありません。ここしばらくはそこまでの敵愾心もお持ちではありませんでしたが、ゆくりなくもあのような車争いに捲き込まれ、再び怨み心が再燃されましたのを、左大臣邸ではそこまでのものとは思い至らないのでした。

 このような惑乱を持て余され、お心持ちが常軌を逸していると思われたのでしょう、斎宮を憚り場所を移られて加持祈祷をさせられます。そのことが大将殿源氏の君のお耳にも届きますと、どのようなお加減かと傷ましく思われ、一念発起されてようやくお訪ねになられました。いつもと違う場所ですので、用心の上にも用心されてひっそりとお出掛けになられます。不本意ながらご無沙汰いたしておりましたわけをどうにかご機嫌が直るよう心を込めて述べられ、北の方のご病状につきましても切々と訴えられます。「私自身はさほど心配してはいないのですが、なにせ親たちが大事にとらえてあたふたいたしておりますのが気詰まりで、ここはひとつ傍にいてあげた方がいいだろうと考えた次第でありました。どうかそれやこれやを寛容なお心でお赦しいただければ、これにまさる喜びはございません。」等々ひたすら胸の内を語られました。いつになくご気分がすぐれないご様子を、もっともだと思われると同時においたわしいとご覧になられます。

 ぎくしゃくとしたまま迎えた夜明け前、お帰りになられる源氏の君のお姿があまりに麗しく、やはりこの方と別れて伊勢に下ることは辛過ぎるとご決心が鈍ってしまわれました。一等大切な方に、さらに愛情を傾けられるような事態が起っておられるのだから、こんな風にただお待ちするだけの関係を続けていても心が擦り切れるだけ……、と鎮まっていたはずの物想いがまたぞろ振り返す心地になられ、そうこうしておりますうちお手紙だけが日も暮れかかった頃に届きました。

ここ数日やや快方に向かっておりましたが、容態が急変いたしまして、傍を離れるわけにもゆきません。そう認められておりますのを、またいつもの言い訳ね……、とげんなりされながら、

涙で袖を濡らすばかりの恋路とは知りつつも、泥田に降り立つ農夫さながらに一層深みにはまる我が身の愚かさよ

古今集の山の井の水ではありませんが、袖が濡れるのも致し方ありませんのね。

と付け加えられております。この方のお筆遣いは一際抜きん出ておられるなぁと感心されながらも、男と女の間柄というものは一体どう考えればよいのだろう、心映えも容貌も十人十色、誰もこれはという欠点もないかわりに、ここぞという決め手にも欠ける、実に困ったものだと苦悩されておられます。ずいぶん暗くなってお返事を遣わされます、

袖ばかりが濡れるとはこれいかに。情愛が深くない証ではありませんか。

貴女はきっと浅いところに降り立たれたのですね、こちらは全身ずぶ濡れの深い恋路に踏み込んでおりますのに

軽々しい気持ちでこんなお返事を自分から差し上げるとでもお思いでしょうか。などと書かれてありました。


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