
神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。
原文
家居の、つきづきしくあらまほしきこそ、かりの宿りとは思へど、興あるものなれ。
よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も、一きはしみじみと見ゆるぞかし。いまめかしくきららかならねど、木だち物ふりて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子、透垣のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ。
多くのたくみの心をつくしてみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度どもならべおき、前栽の草木まで心のままならず作りなせるは、見る眼も苦しく、いとわびし。さてもやは、ながらへ住むべき。また時のまの烟ともなりなむとぞ、うち見るより思はるる。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ。
後徳大寺大臣の、寝殿に鳶ゐさせじとて、縄をはられたりけるを、西行が見て、鳶のゐたらむは、何かは苦しかるべき。この殿の御心、さばかりにこそとて、そののちは参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮のおはします小坂どの棟に、いつぞや縄をひかれたりしかば、かのためし思ひいでられ侍りしに、誠や、烏のむれゐて池のかへるをとりければ、御覧じて悲しませ給ひてなむと、人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にもいかなるゆゑか侍りけむ。
翻訳
住まいが分相応で、調和がとれあるべき姿を呈しているのは、ほんの仮の宿とは思うものの、心動かされるものがあるなぁ。
身分、学識共に高く品格も兼ね備えた方が悠々とお住まいの家は、射し込んでくる月光も、ひときわ身に沁み入るように見えるもの。当世風めかして華美では決してないが、木立もいいふうに年ふり、作為とは無縁のあるがままの庭草までもが絵になり、簀子や透垣の配置にもわざとらしさは微塵もなく、さりげなく置かれている調度類もさも昔からそこにあったかにようにしっくりきているのは、ついうっとりと眺めてしまう。
それに引き換え、大勢の職人たちが技の限りを尽くしてぴかぴかに磨きたて、やれ唐のだ本朝のだと珍奇で懲りに凝った調度をずらり並べ置いて、前栽ですら人工美の極みとは、まったく見苦しく気持ちが荒む。そうまでしたところで、どれほど長く住めるというのだろう。いずれのこと火事であっという間に焼け落ちてしまうのは、一瞥しただけで察しがつく。大体において、家を見れば人となりが見てとれるものだ。
後徳大寺大臣が、本殿の屋根に鳶をとまらせまいとなさって、縄をお張りになられたのを、かの西行が見て、鳶がとまったところで、なんの差し障りがあろう。ここのご主人の心映えは所詮その程度のものと見た、と以降参上を控えたと聞いておりますが、綾小路宮がお住まいの小坂殿の棟に、いつだったか縄を引かれたことがありましたので、つい後徳大寺大臣の話を思い出してしまいましたが、嘘偽りなく申し上げれば、烏の群れが池の蛙を捕るので、見るにしのびないと宮様がお思いになってのこと、とある人が打ち明けたのこそ、心打たれるものがあった。徳大寺殿の話にも、ひょっとして何かしらいわくがあったのかしらん。
註釈
○後徳大寺大臣
後徳大寺実定。左大臣。百人一首に、ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞのこれる、が採られているほどの歌人。祖父の徳大寺実能と区別するために、後徳大寺実定と呼ばれます。西行の実家佐藤家は、代々徳大寺家に仕えていました。
○綾小路宮
亀山天皇の皇子で延暦寺別院の妙法院門跡。
この段にも「侍る」が!
「徒然草」に「侍る」が出てきたら、概ね嫌味当て擦り皮肉と思って間違いありません。
私の西行に対する低評価は、「徒然草」のこの段と、「雨月物語」の「白峯」に拠っています。
家(インテリア)が住む人の鏡であるのは、今も変わりませんね。