源氏物語 現代語訳 賢木その8


 司召があり、こちらの宮の人たちは賜るべき官位に就けず、慣例に鑑みましても、中宮の権利である年爵の面におきましても、当然あってしかるべき昇進すら果たされず、大勢が嘆いております。かくの如く出家され、ごく自然な流れで中宮の位から退かれても、すぐさま収入が途絶えてしまうなどということはまず考えられないのですが、落飾されたことを口実に処遇が変わってしまうことが多々あるのです。何もかもを捨て去ってしまわれた世の中とは云え、身内の宮人たちが所在なげに悲しんでおります姿をご覧になられますと、つい動揺されてしまうこともおありですが、それでもたとえこの身がどうなろうとも東宮がご無事に即位なさりさえすればと、一心不乱にお勤めに励まれておられます。そんな折にも人知れずひょっとして不吉な出来事が起こるのではと不安に駆られることもあるものの、すべての罪は私が引き受けますのでどうぞお見逃しくださいとみ仏に念じられ、あらゆる事を慰めておいでです。大将源氏の君も、そのお姿をしかとその眼に刻まれ、もっともな事と感動しておられます。二条院の人たちもまた同様に非道い目にばかり遭っておりますので、源氏の君も合わせる顔がなく、ずっと引き籠っておいでです。

 左大臣も、公私ともにがらりと様変わりした世の有り様に愛想を尽かされ、辞表を提出されました、お上は、亡き院が左大臣を揺るぎない後見役とお考え遊ばされ、長きにわたってこの国の重しとなるよう御遺言されましたことから、一目置く存在と見なしておられますので、いくら嘆願されても承服できかねると差し戻されるのですが、それでもなお強く辞意を申し出られて御自邸に引っ込んでしまわれました。今はもう右大臣の一族だけがますますもって富栄ております。重鎮として聞こえた左大臣が、このように身を引かれてしまわれましたので、お上は俄然孤独を感じられ、世の心ある者たちはこぞって溜め息をついております。

 左大臣のお子様方も、皆さん温厚な性格で重用され、のびのびと暮らしておられましたが、昨今は陰を潜められ、三位中将などもまことに不本意ながら鬱屈した日々を送っておられます。右大臣家の四の君の許には、今なおごく稀に通われながらも相変わらず不実な扱いをなさいますので、あちらも必然的に親密な婿の数の内には入れておりません。立場を思い知れと云うのでしょうか、この度の司召からも除外されてしまいましたが、ご本人はたいして気に留めてもおられぬようです、大将源氏の君ですら身を潜められ、この世は所詮一寸先は闇と考えておられる、私がこうなるのも理の当然と見切られて、毎日のように二条院を訪れ、学問も御遊びも連れだってなさいます。かつて躍起になって競走馬を剥き出しにされたのを思い出され、その名残か今もちょっとしたことでも競い合われておられます。

 春と秋の大般若経の読経はもちろんのこと、その都度その都度様々な尊い法要を臨時に営まれ、その他にも冷遇されて暇を持て余していそうな博士たちを召し出されては、詩作や韻塞の類いの暇潰しをなさって憂さ晴らしをし、宮中へはほぼ出仕されずに、お心の赴くままお気楽な日々を送っておられますが、世間ではそういった暮らしぶりを問題視していずれは陰口を叩く者も出てきそうな気配でございます。

 ゆるやかな夏の雨が降って手持ち無沙汰なある日のこと、中将がめぼしい漢詩集を数多く携えて二条院にお越しになりました。源氏の君も、書庫を開けさせて、未開封の御厨子群の中の、貴重な古集の中から由緒ありげなものをいくつかを撰び出され、詩文に長けた者達をさりげなく大勢召集なさいました。殿上人からも大学からも、相当数が集い、左に右にと入れ違いに配置されました。賞品なども、きわめて上等のものを用意されて、競い合わせます。韻塞の字が徐々に塞がれてゆき、難しい文字も多く、学識高い博士たちも難渋し頭を抱えるところ、時折そっと口を挟まれるご様子は、こよなき才能をいかんなく示されております。

「いったいどうしてこう何もかも備わっておられるのでしょう、やはり持って生まれた宿命、あらゆる面において人より優れたお生まれに違いない。」と誰しもが賞賛を惜しみません。最終的に中将側の右方の負けと相成りました。

 その二日ほど後に、負けた中将が饗宴を催されました。ぐっと渋めのそれでいて雅を感じる檜破籠に数々の賞品を入れ、今日もまた例のごとく多数の参加者を喚んでは詩文を作らせます。階段下の薔薇がわずかにほころび、春秋の花盛りの季節よりもしっとりと味わい甲斐のある折柄ですから、皆々気兼ねなく盛り上がります。

 中将の御子息で、今年から御所に上がる八つ九つばかりの、美声の持ち主で笙なども吹きこなす男の子を、源氏の君が特に目をかけられ可愛がっておられます。正妻四の君との間に生まれた二郎という子です。なにせお祖父様がかの右大臣ですから、周りもいたって丁重にお取り扱いいたしております。性質も聡明な美少年で、宴が終盤に差し掛かる頃、「高砂」を澄んだ声で歌い出しました。

 大将源氏の君が、ご褒美にお召し物を脱いで着せてやります。いつになくきこしめしておられるお顔色が、絶品とも云える美しさでございます。羅の直衣の上に単を重ねられ、透き通るほど白いお肌がより一層麗しく見えますのを、老博士たちは遠巻きに拝見しながら自然と涙を流しております。

「あはまし物をさゆりばの」と高砂が歌い納められ、中将が土器を手にお酒を勧められます。

それが是非見たいと待ち焦がれられ、今朝やっと開いた初花、それに劣らぬ貴方の美しさよ

にっこり笑って受け取られます。

咲く時期を誤って今朝開いた花は、夏の雨に匂うこともなく萎れてしまったようですよ

すっかり駄目になってしまいました、とめずらしく浮かれた口調で仰って、受け流そうとなさるのを、中将はこれこれと嗜められつつ更に無理強いなさいます。

 他にも数々の逸話がありましたが、このような場の、戯れ言をだらだらと書き連ねるのは野暮だと、貫之も戒めておりますから、それに素直に従い、煩雑になりますので、このあたりにとどめておきます。

 そんなわけで参加者全員が、源氏の君を礼讚する漢詩や和歌などを延々と作り続けたのでした。源氏の君もつい調子に乗られ、「文王子、武王弟」などと口ずさまれましたのは、実に愉快なお名乗りだったと思います。

 成王がどうだと仰りたいのでしょうか。そればかりはさすがに明言出来ますまい。兵部卿宮も御常連で、楽器の演奏に長けたお方ですから、風流な遊び友達となられております。

 折しもその頃、尚侍の君が里退がりなさいました。このところ瘧病を患っておられましたので、気兼ねなくまじない等をなさるためです。

 修法などを始められますと、たちまち回復されましたので、周りの誰もが胸を撫で下ろして喜んでおりましたところ、例によってこんな好機がまたとあろうかとばかりに、かなり強引に夜な夜な逢われておられます。花の盛りのお年頃ですが、病のせいですっかりほっそりとされ、それがまたぐっとそそるのです。大后も共に退がられておりますので、気を抜かれるわけにはまいりませんけれど、危ない橋ほど渡りたがる困った御性分ですから、忍び逢いが度重なるにつれ、感付いた者も何人か出てきておりますが、事を荒立てては大変と、大后にご注進する者もおりません。


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