【徒然草 現代語訳】第七十三段


神奈川県大磯の仏像専門店、仏光です。思い立ってはじめた徒然草の現代語訳、週一度程度で更新予定です。全244段の長旅となりますが、お好きなところからお楽しみいただければ幸いです。

原文

世に語り傳ふること、まことはあいなきにや、多くは皆虚言なり。

あるにも過ぎて人は物をいひなすに、まして年月過ぎ、境も隔たりぬれば、いひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、やがてまた定まりぬ。道々の物の上手のいみじきことなど、かたくななる人の、その道知らぬは、そぞろに神のごとくにいへども、道知れる人は更に信もおこさず、音に聞くと見る時とは、何事もかはるものなり。

かつあらはるるをも顧みず、口にまかせていひちらすは、やがて浮きたることと聞ゆ。また、我も誠しからずは思ひながら、人のいひしままに、鼻のほどおごめきていふは、その人の虚言にはあらず。げにげにしくところどころうちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながらつまづまあはせて語る虚言は、恐ろしきこと
なり。わがため面目あるやうに言はれぬ虚言は、人いたくあらがはず。皆人の興ずる虚言は、ひとり、さもなかりしものをといはむも詮なくて、聞きゐたるほどに、証人にさへなされて、いとど定まりぬべし。

とにもかくにも、虚言多き世なり。ただ常にあるめづらしからぬことのままに心得たらむ、よろづたがふべからず。下ざまの人の物語は、耳おどろくことのみあり。よき人は怪しきことを語らず。かくはいへど、仏神の奇特、権者の傳記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、よもあらじなどいふも詮なければ、大方は誠しくあひしらひて、偏に信ぜず、また疑ひ嘲るべからず。

翻訳

世の中で語り伝えられていることは、本当の事が面白くもなんともないからか、たいてい嘘っぱちである。

人は盛るのが好きだから話はつい誇張され、ましてや年月が経過し、場所もすっかり隔たっているので、云いたいように脚色し、挙げ句書物にまで書き留めたりした日には、恐ろしいことにそれが事実としてまかり通り信じられてしまう。専門の道の名人たちの逸話も、見る目がない無教養の人は神業のごとく褒めそやすけれど、道理をわきまえた人は一顧だにしない、噂に聞くのとこの目で見るのとでは常に大きな隔たりがあるものなのだ。

どうせすぐバレるだろうし別に構わないと、口から出任せをぺらぺらと喋っても、根拠がないのはすぐ露見する。また、自分でも疑いを挟みつつ、人が云ったのを得意顔で鼻をぴくつかせながら喋る、こちらは決してその人が嘘をついたというわけではない。それよりも、いかにもまことしやかに、話の要所要所ぼかしながら、その辺りは知らないふりをして、しっかり辻褄を合わせて話す嘘ほど怖いものはない。とはいえ、自分の面目が立つように云われた嘘には誰もが無頓着で、むきになって否定したりはしない。居合わせた者達が皆面白がる嘘には、たとえ自分だけがちょっと違うんだけどな…と思っても、口にするのは差し出がましいので黙って聞いているうちに、いつしか証人のように扱われ、嘘がまこととして固まってゆく。

とまぁ、とかくこの世は嘘だらけ嘘まみれ。よって、どんな話を聞かされても、よくある話、そんなの珍しくもないと、話は話として受け流していれば、万事勘違いすることはない。下司な者どもの話は、耳を疑うぎょっとするような話ばかりである。君子は怪力乱神を語らず。とは云うものの、神仏の霊験、聖者高僧の伝記の類いに関しては、頭から信ずるに足りずと断じるものでもない。これについては、世に溢れる虚言を心底信じこむのもバカげた話で、まさかそんなことが…と口にしたところで詮ないことではあるから、おおむね真実として受け止め、むやみにありがたがるのでもなく、またやたらと疑ったり嘲ったりするのも慎んだ方がよい。

註釈

○虚言
読みは「そらごと」。

○権者
読みは「ごんざ」。


人間は、嘘と他人の不幸を食べ続けて肥え太る生き物です。たまに、自分の不幸をしゃぶって歓ぶ人もいるようです。

追記

不幸だなんて思ったことありません。ある意味不幸なのかな。


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